俺に来年を生きる資格はない

ああ、もうあれから一年経ったのだなあ、と思う。去年の末は何を思い、何を書き残しただろう。あれほど燃え盛っていた熱意という滾りはどこに行ってしまったのだろうな、とも思う。勝手に熱くなって、勝手に傷付いて、勝手に冷えて、勝手に絶望して。全て自分の勝手だ。俺はこんなにも自分勝手な人間だったのだ。

今年という時間を腐ったまま食い続けて、結果どうなっただろう。残ったのは虚無感と醜い自分だけだ。どうにかできると思ってやってみたが、どうにもならなかった。どうにかしなければと思ったが、どうにもしなかった。
誰かの何かになりたかった。人というのは一人で完結しない。宇宙と同じように、認識されて初めてその存在が確立する。誰かの子、誰かの親、誰かの友達、誰かの恋人。そんな肩書に縛られたくないとか、その前に一人の人間でいたいとか、そういうのは全部思い上がりでしかない。星の出ない大海のど真ん中を一人で航海することはできない。人との繋がりは自分が今どこにいるのか教えてくれる、心強い星のようなものなのだ。俺は去年、今年と段々孤立し、自分が曖昧になったように感じる。星空が不変でないように、人間もまた変わっていく。

日常は、ある日突然上向きになったりはしない。足元から崩れ去ることはある。だが、急に良くなったりはしない。日々を努力し、明日の為に頑張った者にしかそれはやって来ない。俺は出来ただろうか。いや、全く出来ていない。日々をこなすことに自分を裂き、後は惰性で生きていたに過ぎない。後悔することなどわかっているはずなのに、それでも何となくでこなしてしまっていたのは今日の日も人生の一日である実感が希薄なのだろう。何度もわかったつもりなのに、夜眠れば日が昇り朝が来る。その確実さが実感を薄めてしまっているのだろう。そうして日々死んでいくことなどわかっていたくせに!

負け癖というものがある。俺はこれまで人生における転機を、ほとんど全て負けて過ごしてきた。原因は様々。努力不足、能力不足、環境、状況、心境。本当に様々だ。今日ここに「努力不足だ、精進せよ」と書いたとしても恐らく明後日には忘れてしまっているだろう。努力不足は勿論問題だ。問題なのだが、もっと大きな問題は、負け癖がついてしまっていることだと思う。何かが駄目になりそうなとき、諦めてしまう癖がついている。絶望はゆっくりと忍び寄る。絶望とは大体が時間のことだ。この時間という絶望よりも早く、自分の中に言い訳を作ってしまえば傷は少なくて済む。俺はそれに慣れてしまったようなのだ。これは人間の根源にある自尊心の問題になってくる。高ければ高いで生きづらいが、低すぎれば何もかも原動力を失ってしまう。何もかもだ。自尊心を低く設定しておけば傷付くことは少ない。たが、終わりなのだ。そこで終わりなのだ。有名な漫画の台詞で「諦めたらそこで試合終了だ」というものがある。自尊心のハードルを下げすぎると、諦める以前に目指さなくなってしまうのだ。今俺はそんな状態なのだと思う。

幸せはやってこない。でも不幸はすぐに来る。本当にすぐに来る。気配を感じたときには、既に横にいる。これを消すには、自身が幸せであることを実感するか、もしくは何かに熱中するしかない。不幸など、分析を始めた視点で自分の負けだ。不幸は自分の心の中に飛び火する。考えてはいけないものなのだ。

振り返る言葉はたくさん持っている。が、今年は一言で言い表せる。
最低だった。
環境や状況ではない。ただ、本当に単純に、俺が最低だった。
来年の目標など、おこがましいものは持たない。来年を使ってでも、今年のけりをつけろ。それだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?