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「政高軍低」から「軍高政低」へ

はじめに

1920年代から1930年代初めごろは、政治によって、対外的な協調を保ち、軍をコントロールしていたという「政高軍低」の時代であったという認識がある。国際連盟への参加、ワシントン会議の5国条約における軍縮、9か国条約における中国の門戸解放政策への賛同、パリ不戦条約、ロンドン軍縮会議での軍縮など政治によって対外との問題の解決を図ることが特徴としてあげられる。しかし、31年の満州事変に始まる30年代の日本は「軍高政低」あったとされる。対外危機を武力によって解決を図るものだ。これは、5・15事件より始まったとされる軍部の台頭としても知られる。その移り変わりには、何があったのか、ここでは、「政党から軍部へ」(北岡、1999)、「日本外交史講義」(井上、2014)を中心に参照し、私の考察も交え、『政高軍低から軍高政低へ』の流れをまとめたい。

1.政高軍低時代

ここでいう政高軍低時代とは1920年代のことを指す。その特徴として、政党内閣制の存在があり、そして対外政策における政治分野での解決の試み、国際協調、軍縮があると考えられる。

1-1.ワシントン体制

一般的に1921年のワシントン会議から始まったアメリカを中心とする国際協調体制をワシントン体制という。ワシントン体制では、5国条約、4国条約、9国条約によって構成される。本稿のテーマと合致して、とりあげるべきなのは、5国条約と9国条約である。5国条約では米英日の主力艦保有量を10:10:6の割合にし、主力艦の製造をしないというものである。これにより、アメリカの軍拡がされないことが約束されたことにより、世界的な協調的な軍縮が期待されるようになる。政治による対外衝突の回避である。9国条約は中国の門戸解放を確認するもの。当時、満蒙利権を主張していた日本であったが、そのあいまいさを残しつつも、これに基づいて1914年にドイツから獲得した山東省からは撤退し、一応の中国との協調をはかった。政治による対外問題の協調的な問題の解決が行われた。

1-2.パリ不戦条約

26年には中国の北伐が開始され、これに対しての出兵をするが、これは英米からみると限定的なものであったとされる。そして、27年に締結したのがパリ不戦条約である。これは、武力による平和解決を訴えることを禁ずるものであった。現在の日本国憲法9条1項に通ずる文言である。

1-3.ロンドン軍縮会議

29年のロンドン軍縮会議では、5国条約の補完として補助艦もその範囲の中に収められ、海軍戦力全体で対米7割とされ、さらなる世界的軍縮が進んだめられた。

1-4.陸軍軍縮

上では、政治交渉による協調的な海軍の軍縮を紹介したが、この頃、陸軍でも軍縮がなされた。22年陸軍大臣山梨によって将校、准士官、馬、23年には、要塞、学校、役所が整理された。25年の陸軍大臣宇垣によって行われた軍縮では、将校を削減しながら、浮いた予算で軍の近代化を目指し、生産性を高めるという宇垣軍縮が行われた。政治による国際協調の流れのもと、外交交渉によって海軍の軍縮が起こり、それと呼応するように陸軍の軍縮もはかられていった。

1-5.政党内閣制

政党内閣制は24年から、本格的に始まった。選挙によって与党となった政党が中心となって内閣を構成するものである。そして、政治のなかでは、政党間(主に政友会、民政党)の政策論争が行われ、緊張関係がある。これは、政党による政治である。この頃の、軍の政治における役割は大きくなかった。

2.軍高政低時代

ここでいう軍高政低時代とは、1930年代のことを指す。その特徴として、武力による対外政策と、国際的孤立、政治への軍の積極的介入があげられる。

2-1.満州事変の拡大

31年9月満州事変が起こった。これは、関東軍が奉天北方の柳条湖において、満州鉄道を爆発させ、これを中国の仕業として一気に兵力を拡大した。軍の単独の行動であった。そして、翌32年には、錦州を占領。傀儡国家である満州国を樹立させた。そして、満州国から目をそらすために行った自作自演策である各国の租界の存在する上海での武力衝突、上海事変によって英米のこの事件に対する態度を硬化させた。

2-2.5.15事件、2・26事件、組閣介入

国内でも軍部の政治への介入は始まった。まず32年、海軍の青年将校によって犬養首相が暗殺された。36年には、陸軍の青年将校たちがクーデターを試みるという2・26事件が起こった。その前後にも、3月事件や10月事件といった軍による政治の介入の試みは行われていた。これらの事件に影響を与えた、予備役の軍人たちの介入を防ごうと、軍大臣は現役の武官としなければならないという現役武官制が導入された。皮肉にもこれは、大臣の組閣介入を通じて、軍が政治に影響を及ぼすことが容易になった。

2-3.軍縮の終焉、軍拡

33年日本は満州国を承認しない国連の決議に反発し、20年代に築き上げた国際協調から一転し、国連を脱退した。そして、それとともに築き上げてきた共同的な軍縮の試みは34年の5国条約の破棄、36年のロンドン軍縮条約の破棄によって終わることになる。軍縮の正当性が弱まった日本は、帝国国防方針を改定し、37年からは、一気の予算増加と軍拡が図られた。国連脱退によって無条約状態となったことによって、その制約がなくなったことは大きかった。そして、この軍拡は、日米開戦で「短期決戦なら大丈夫」という一種の正当性を与えることになる。

3.政高軍低から軍高政低へ、その裏にあるもの

これまでは、20年代の政高軍低時代、30年代の軍高政低を概観してきた。ではその移り変わりにはなにが存在したのか。

3-1.統帥権

大日本帝国憲法11条には、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」ということがある。つまり、明治憲法下においては、そもそも軍は政治家の下ではなく、天皇のものとなった。そこで発生してくるのが、統帥権問題というものだ。これは、陸軍の皇道派、一部政治家に政による軍のコントロールを批判する根拠として用いられる。その批判とは「憲法上では、天皇のもとに軍が存在するのにもかかわらず、なぜ政治家が軍をコントロールしているのか」というものである。つまり、明治憲法下の日本は理念としての政党政治や政高軍低は存在し、実現していたが、憲法というもっとも根源的なものによってそれがお墨付きを与えられていなかったのである。

3-2.政党対立

政党対立による緊張関係も政党が時の政局に走ることによる負の面も存在した。例えば、政友会は民政党を攻撃するために、上の統帥権を根拠にロンドン軍縮会議での成果を憲法に反すると批判した。また、天皇機関説事件においても軍と一体となって、天皇は国家の一機関であるとした天皇機関説を批判し、美濃部を辞職に追い込んだ。これは皮肉にもその後の政高を弱めた。また、満州事変時の協調内閣構想も金解禁をめぐる政党対立によって折り合いがつかず、実現することがなかった。また、無産政党などのように満州国成立をむしろ容認している政党も存在した。このように、必ずしも政党側に政高軍低の理念が共有されていたわけではなかった。そのなかにはむしろ、軍高政低に協力する勢力も存在した。

3-3.軍

政高軍低時代は、宇垣を例に軍務大臣レベルでもその理念と国際協調、軍縮に対するコンセンサスが存在した。しかし、20年代のそれは、軍のなかで反発を呼ぶことになる。その反発が満州事変、5・15事件、2・26事件というかたちで表面化したのが30年代であった。統帥権を根拠に皇道派は20年代のコンセンサスをいとも簡単に破ることができたのだった。

3-4.東亜秩序

20年代、30年代、日本がアジアの盟主となってアジア共同体を実現するという東亜秩序が存在した。それは、満州国、日中戦争、英米との対立との大義名分として政治家、軍、国民のたびたび用いられたことで有名である。つまり、30年代の軍を中心とする対外膨張をバックアップする思想も有力なものとして存在した。

4.結論

本稿では、20年代の「政高軍低」と30年代の「軍高政低」の概況。そして、その移り変わりにあるものを文献をもとにまとめてきた。20年代、デモクラシー、政党政治、国際協調といった「政高軍低」の理念は具体化されたと考えられる。しかし、それは不文の合意であり、根本的な根拠である憲法の正当性はなかった。憲法の正当性が存在したのは、むしろ30年代に台頭した「軍高政低」であり、またそれを支援するような政治家や思想も存在した。現代人の眼鏡からしてみれば、20年代の方がよく、30年代が悪く見えてしまうが、それは時代背景からするとそうとも言えない。30年代の「軍高政低」にもれっきとした根拠が存在したのである。その見極め方は難しい。

※本稿の読者の方で、事実関係などの謝りをみつけた方はコメントなどで訂正をお願いします。ノートとして書き少しあいまいな記述などがありますが、これからまたさらに勉強します。また記述の誤りは、ダクト飯本人が負います。

【参考文献】

https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html

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