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立場を明確にすること【だい記#117】

こんにちは。
今日から8時半登校の通常日課になり、朝早すぎて泣きそうなだきです。#今日は遅刻多数とみた

さて、
今日は「立場を明確にすること」というテーマで書いていきます。

昨日、趣味で現代文の文章題を解いていたのですが、一つ面白い文章があったので紹介します。

結論を簡単に言うと、近代合理主義への批判です。

「幼」や「老」は、生産力のなさから、支え合いという社会の構造から追い出されて、一方的に支えられる面倒な存在として位置付けられています。
前近代の共同体が解体された今、はじめて現れた状態です。
特に老人に関しては、よいセルフイメージを持って生きれる人がほぼいないため、筆者は「老いの空白」と名付けています。

しかし、実際にはそのような人からも僕たちは支えられています。

介護者が老人を支えることで、自分の弱さに気づき、強さへの志向から解放されることがあります。
誰しもが老いに限らず何かしらの病い(欠点)を抱えているため、同じような状況の人が関わるとき、人は自分をさらけ出すことができるようになります。
特に老人の場合は、すでに病いを曝け出しているので、自分も出しやすくなります。

要するに、老人を生産性がないからといって排除せずに、みんなで支え合う社会を形成していきましょうよというお話です。

このような体の話は現代文の文章読解ではよく出てきます。
しかし、僕が普段取り入れている情報と比較すると、明らかなアンチテーゼです。

ホリエモンや箕輪さんなどは、生産性のないやつは必要ない、努力しないのが悪いんだという考え方です。

ここで、「ああそういう意見もあるのね、どっちもええやん」と理解することが大事ですが、それでも自分がどちら側の考え方かは決めないといけません。
軸がブレると何をやっているか途中でわからなくなります。
これが今回のテーマです。

どこかの新書で言っていました。
難しい文章が読めたとしても、そのテーマについて自分で考えられないと意味がない、と。

かく言う僕もわかりません。
せっかくの人生というゲームなので自分自身は合理的にでもいいからどんどん成長して何かを成し遂げたいとは思います。
しかし、その道を選ぶと周りにも必然的に合理性を求めてしまう思います。
自分に必要な人で固めたいと思うのは当然の心理です。

合理的に成長しつつ、明らかに生産性がない人も認める、これができれば一番です。
俗に言う、自分には厳しく他人には優しく、ということです。

前近代的な考え方を言い訳にして、自分自身が何も成し遂げられないのが一番嫌です。
まだ自分の中でブレブレですが、ひとまずこれで固めます。

このように、立場が二つ以上出されたら、とりあえず決めてみることが必要だと思います。
決めて自分ごとにして初めて気づくこともあると思います。
みなさんも本などで情報を得たときには、そんなこと考えている人がいるんだー、ではなく、自分だったらどうするか考える習慣をつけてみてください!


それでは、
今日も読んで頂きありがとうございました!!

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