「形而上的命題」
トートロジーは中身も形もない形而上的命題だ。前から思っていたけどやはり語り得ることはトートロジーの内側、論理の内側だ。
トートロジーは論理空間の内側に収斂されていって、最後には0になる。しかしまず論理空間という言葉はあまりよくないことに気をつけるべき。
空間というと限定された空間をイメージするが、形而上的命題は無限である。そして全ての事象にトートロジーは浸透している。0はどこにでもある。
りんごはりんごである。机は机である。空は空である。一見して情報量0のこの命題が、実はそのものをそのものたらしめている。イデアだ。
矛盾は論理空間内の全てを否定する。そして発散してしまう。とは言っても無限に広がる空間のことでだ。矛盾もまた0である。
トートロジーと矛盾は一つになりえる。しかしこのトートロジーと矛盾とが世界を成り立たせている。
単なるトートロジーによる真理表、単なる矛盾による真理表、この二つは前者は肯定だけ、後者は否定だけである。
ミクロな矛盾がある。それは一つの否定だ。例えばりんごはりんごである。と目の前のりんごを切ってみる。これも否定である。
果肉と果汁が出てくる。これも否定である。このように世界の事象全てに浸透するトートロジー同様、否定も世界の事象に浸透する。
この否定によりりんごの形が分かるように、否定により世界は形づくられる。
トートロジーと矛盾はいわば世界の根底をなしている。
トートロジーが形而上であり矛盾が形而下である。
ウィトゲンシュタインがメモに矛盾が最も豊かに語るのではないか、というようなことを言っていたが、
まさに矛盾をして世界は語られる。否定をして形や中身を語り得る。矛盾がなければ違いがなければ、問題がなければ、私たちはこんなにも喋らない。
情報を必要としない。いい恋人とはきっと喋ることよりも、沈黙でいれることの方がいい相手だろう。それは二人の間に矛盾も問題もないからである。
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