抑圧と幸福
私は、私たちは幸せなときには「私は幸せだ」ということをもっと表現した方がいいのではないかと思っています。それが六本木のシャンパンだという人もいるでしょうし、きゅうりの漬物が美味しかったという人もいるでしょうし、私なんかは風が強い日に電動自転車で風を切っていると仮面ライダーV3になった感じがして幸せな気分になりますが、とにかくなんでも良いので自分自身にとって幸せなことをそのまま表現してもいいのではないかと思っています。
私たちの社会は他者の気持ちを慮ることを重視しています。どこかに辛い人や苦しんでいる人がいると自分だけが幸せそうにしていることに後ろめたい気持ちを持ちがちです。また同時に嫉妬も意識します。全体として喜びや嬉しさや幸せを素直に表現することを抑制しているように私には感じられます。もちろん社会での争いを軽減する私たちの知恵でもあります。自殺率と他殺率は地球規模で見れば逆相関するわけですが、それは葛藤をどこで処理するかという話なのだと思います。自分らしさを出せば、人は多様ですから当然少しは争いが生まれます。
けれども争いを避けるために、個々人がなるべく感情を出さないように抑圧していることは幸福感の低下に影響していると私は思います。なぜなら幸福は個人で切り離せるものではないからです。みんなが浮かない顔をしているレストランで一人幸せになれる人はそう多くはありません。またみんなが幸せそうで笑いかけてきてくれるところで、少し落ち込んでいたところが幸せになることも珍しくありません。全ては影響しあっているからです。
これは他者への配慮をやめることではありません。大変な状況の人はいますからむしろその人たちへは具体的な支援と配慮が必要です。それはそれとしてきちんとやるべきです。
でもだからといって幸せそうにすることまで抑制する必要はないと思います。なにしろ今生きているこれは自分の人生なのですから。私たちはいつか必ず死ぬんです。それは明日かもしれません。本当はこうしたかった、本当はこう思っていた、と最後に後悔するよりも、自分を表現し切った方がいいのではないかと思います。そのためには自分に対する自動的な抑圧をやめる。嬉しい、悲しい、楽しい、悔しい。心が揺らいで大変なことも多いですが、でもだからこそいいのではないでしょうか。
そして幸せそうにしている人が必ずしも全てうまくいっているかというとそうででもないと思います。それでも幸せそうにする。「悲観は気分だが、楽観は意志である」とアランは幸福論の中で述べました。辛い人に合わせてみんなが辛そうにするよりも、幸せであろうと意志を持つ人が辛い人を包み込む社会の方が私は良いのではないかと思っています。
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