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感情とは推論ではないか

感情とは推論であるという考えを持っている。人間が自らの感情を理解する際、最初に生体反応があると思う。動悸が早まる、発汗、筋の緊張、または弛緩など。狩猟時代は、比較的シンプルな反応が主だったように思う。危険が迫り逃走したり、獲物を見つけて追いかけたり、お腹が空いて食べたり。

状況に対しどう反応すると生存確率が高いか、子孫を残す確率が高いかというランダム実験が行われ、効率のよい反応をして生き残った種の子孫が我々だと考えると、まず状況に対し生体反応があり、その後それをどう捉えるかと部分において感情が生まれていると思う。反応ー観察ー感情というべきか。

自分の感情を知るのがうまい人間は、感情そのものではなく、今の自分を取り巻く周辺の環境、過去の履歴、そして自分自身の生体反応を観察し統合して、おそらく今自分はこのような気分ではないかと推論しているように思う。つまり、感じるのもうまいかもしれないが、実は観察と推論がうまい。

息子が感情を昂らせたあと、どんな感じがして、なぜそうなったのか聞いてみると、5歳でもそれなりに説明できる。お腹がむずむずしていてそれを言葉にしようとしても上手くいかないのに、わかってくれないとと(私のこと)をパンチしたくなったそうだ。既に生体反応の観察と周辺との関係で推論がある。

妻がお腹がムズムズするとクッションを叩くという手法を伝え、わかってくれないことでパンチしたくなるなら、まずそれをととに言葉にしてはどうかというと、ずいぶんコントロールが効くようになった。情動は行動に至るわけではなく、言語化、対象の選定、コミュニケーションによって結果を変えられる。

生体反応は無意識化で行われるので扱えない。ただ、そこから感情を推論し、行動によって解決しようとするプロセスは自分で扱える。この推論のプロセスに、強いバイアスつまり思い込みが入る人は、このような反応があったのはこれが原因に違いないとむすびつけてそこに固執する傾向にある。

私はその推論に強い影響を与えているのが言語能力で、言語能力が乏しい人は、生体反応に対し少ない種類の捉え方しかできないのではないか。むかつく、たのしい、すき、きらいという、ある種生体反応にそのままひきづられた言語表現が多い。推論と言語能力とメタ認知の関係は深いと思う。

自分を知るとは、推論できるようになることで、自分を扱うとはパターン認識のことだと思う。それを支えるのは生体反応の検知と言語能力ではないかと思っている。

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