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ゾーンと現実感

長文ファンの皆様おはようございます。

アスリートはゾーンと言われる深い集中状態を体験することがありますが、その世界を体験した後、現実感が疑わしく感じられるようになりました。日常の現実感は「現実であると意識している」感じですが、ゾーンの最中の現実感は「現実に直接触っている」と感じます。正確にはゾーンを体験してから日常の現実感が変わってしまいました。

私たちは日常何かを認識する際にモデルを用いていることが知られています。自分の中にそのモデルがなければ認識することができません。生後数ヶ月で視力を失った男性が大人になり網膜を移植し視力を取り戻したあと起きたことは大変興味深いです。

その男性は最初に触らないとそれがうまく視覚で認識できませんでした。触覚で世界を知覚していたので、そのモデルと視覚を擦り合わせないと認識できなかったのです。

男性は夕方、中空を指差し「あれはなんだ」と言いました。月は触れないために自分のモデルとすり合わせることができていなかったのです。

つまり私たちは幼少期から経験を通じモデルを自分の中に組み立て、そのモデルに投影させ世界を認識しているのではないかと思います。大袈裟に言えば閉じられた空間に過ごし外部にあるディスプレイを通じて世界を見て、外部にある触覚センサーを通じて世界を感じ、部屋の中には過去に覚えた世界の名前と特徴が書き記されている大量のメモがあり、ディスプレイや触覚センサーに情報が入るたびに、大量のメモを見比べてあれは何かを認識するようなイメージです。

厳密な意味でも私たちは世界を直接触ることができません。網膜に届けられた光を知覚することが「見る」ことです。

しかし、仮にこのモデルが外すようなことができたらどうでしょうか。部屋から飛び出してしまったらどうなるのでしょうか。

私はゾーンの世界は「過去の来歴や自分の認知の癖が限りなく弱まった状態」だと考えています。私たちが花を花だと思うのは、小さい時から「あれは花って言うのよ」と誰かに教えられてきたからです。でももし、その花だと教えられる前に戻れたら、花はどう見えるのでしょうか。

ゾーンを大袈裟に言い換えるなら「いきなり世界に飛び込む体験」です。当然直接なので一瞬で感じるし、対応できます。ゾーン体験では、知覚が変わると言われていますが、それは直接触ってしまうからだと考えています。

ただ、人間はそれを触っていると自覚した途端、モデルによって世界を認識するモードが立ち上がってしまうため、直接触りながら自覚していません。ただただ身体の中を感覚が通り抜け、それに身体が反応している状態ではないかと思います。

「いきなり飛び込んでみた体験」がなければ、モデルを用いない認識があるかもしれないという疑い自体をもちにくいように思います。ゾーン自体は時々語られますが、ゾーンの余韻はあまり語られていないと感じています。

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