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盲信とクラスタ

ちょうど朝茂木さんが超弩級の有名人でも、今の中高生は知らないという話をされていたことも関連していて、昨日いかにして人は盲信を始めるかということについて考えていた。人間は多かれ少なかれ思い込んでいてそれを自分で気づいていない。ただそれでも盲信の一線というものがある。

人間はいつバランスを崩すのか。盲信と呼ばれる状態に入るのはどのあたりなのか。また、それを自分では気づかないのはなぜなのか。私はその一つの例として、普段一緒にいる人間の考えの偏りが影響しているのではないかと思っている。

茂木さんは最近はクラスタに分かれ誰もが知る有名人はいなくなりつつあると言っていた。私もそう思う。そしてそれは一方で、同じものを好きな仲間、同じ考えの仲間、居心地がいい仲間を選択してその中で生きていけることでもある。しかし、それはいろんな考えを押し付けられる状況から逃れているとも言える。

私は昔でいう全体主義は、全体にアナウンスできるマスメディアの役割が大きかったと思う。一方それがクラスタ化した今は、同じ力が個別にカルトを生み出していくのではないか。パブリックでは正しいことしか言いにくくなった今、本音は地下に潜りわかる人同士で分かち合うようになる。

以前カルトに関する本を読んだ時、離脱させるにはとにかく集団から引き離さないことには何も始まらないと言っていた。しかし、現在はオンライン上にコミュニティがあるから物理的に引き離すことがとても難しい。そして情報もターゲティングしてその人を狙い撃つ。

最初に生まれた小さな偏りを加速させ強化させる仕組みが出来上がっている。自分の好む情報は偏りを加速させ、自分にあったコミュニティは偏りを強化させる。つまり人間はほっておくと偏る傾向にあり、システムとして多様性を担保しなければ一部は盲信しはじめるのではないかというのが私の考えだ。

盲信とは孤独の産物である。もはや全体主義は存在し得ないのかもしれないが、何かに属していたいという欲求が無数のクラスタを生み出している。その一部は分断を生み、科学的な結論を信仰でひっくり返そうとしている。バランスを取るコストに比べ、盲信した後に支払うコストは膨大だ。

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