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スポーツとは何か

スポーツの問題点についてご意見を伺いました。体育の授業でスポーツが嫌いになったという方、体育会系の文化が嫌だという方、高圧的な指導者が嫌だったいう方いろいろいらっしゃいました。実はスポーツとは何かという定義はあまりはっきりとなされていません。人によってスポーツの定義は違います。

私のスポーツの定義は「身体と環境の間で遊ぶこと」です。引退しての10年間の活動は、この定義にたどり着く為にあったと言えるかもしれません。

まず「遊ぶこと」ですから、強制はできません。遊びとは自発的でなければならないとホイジンガは言いました。指示されることや義務感を追うことは遊びを阻害します。やろうと思っていたところに、やりなさいと指示されてやる気が失せるのは遊びと自発性が消えたからです。しかしながら、当然社会(つまり環境)は、義務と強制を強いてきます。私たちがルールを守ることも社会が合意したことではありますが、ある意味の強制です。スポーツにもルールがあります。このルールという強制と身体との間で遊ぶことで、自発性を守る必要があります。それがアスリートの知恵です。

遊びですから、学ぶ必要も向上する必要もありません。つまりスポーツ=教育ではありません。もちろん教育に使うこともできますが(日本は世界でも有数のスポーツ教育国です)、根本の部分は遊びなので敢えて教育利用することもできるだけだと考えています。サーフィンをやって学ぼうとする人もいればただ漂いたい人もいて、それはそれぞれ個人が決める話です。

勝ち負けもなくて構いません。またチームである必要もありません。一体感をもったり仲間と協力することの素晴らしさもわかりますがそうでなければならないわけでもありません。勝利を目指す素晴らしさもわかりますがそうでなければならないわけではありません。

向上しなくていいので指導者もいなくて構いません。上手くなりたければ指導者を求めればいいですが、いなくてもランニングはできますし、ドリブルもできます。必要なことは身体が環境の間で起こす相互作用でそこに身を委ねる面白さです。そういう意味で、アフォーダンスを最大限に利用しているとも言えるかもしれません。

私たちは身体を利用し環境に影響を与え、また環境に適応して身体を合わせています。身体と環境との相互作用によって社会はできています。もう少し踏み込むなら身体と環境との間で夢中で遊ぶ時、セルフの感覚は消え失せ主客一体の状態が現れます。夢中と呼んだり、忘我と呼んだりします。この快楽を追求するのがスポーツだと私は考えています。

もしそこに少しだけ意味を添えるなら、自由を制限する最大の要因は私です。私の価値観であり、私という身体制限です。私たちは常に「意味はあるのか」「これで何かは改善されるのか」「これは何かをよくするのか」という制約を受けています。これは社会を良くするドライブではありますが、同時に自分自身に対し強い制約をかけるものでもあります。常に良くならなければならないという制約です。一時的ながらこのような思考や社会的制約から解き放たれるものがスポーツだと私は考えています。

教育に使ったり、エンタメに使ったり、一体感の醸成に使ったり、いろいろだと思います。それはそれぞれが自由に行えばいいとして、一番大切なことは「それぞれの人がスポーツとの付き合い方を好きなように選ぶ」ことだと思います。私はその中で「世界で一番になってその風景を見てみたい」というスポーツを選択しました。25年ほどでしたがそれは大変面白いことでした。

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