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人間をどのモデルで見るか

このような人々が切り離された状況において、どうしても人々の行動、言動をあるモデルに当てはめてみるしかなく、自分自身の人間観が如実に現れるように思う。人間は善か悪か。個人的か集団的か。人と会って修正される機会も少なく、余裕もないためにバイアスが強化されやすい。

この人間モデルを通じて私たちは相手や社会を見ている。下の階の住人が元気なお子さんですねと言った場合、善意か嫌味かは、目の前で喋れば6,7割はわかるが、活字ではわからない。だから、自分の人間モデルで捉えた言葉が加速しやすく、ネットがもつ個人が好む情報を偏らせる影響で修正も効きにくい。

幼少期の頃、周辺に信頼できる大人がいなかった人が社会に出て苦しむのは、この人間のモデルに一定の歪みが出るからではないか。人間を信頼できず、基本的に警戒している。その人がそうならざるを得なかった環境は大人になった時には見えなくなっているために、その人固有の問題とされて苦しむ。

私は高校生でスランプになった時、周囲の大人が自分に失望していることを過剰に捉えて人間不信に陥ったことがある。がんばれという言葉も、早く結果を出せという言葉として受け取っていた。人を警戒し本心を喋らないので、皆よそよそしくなり、余計に人が何を考えているかわからなくなった。

ところがある日、もしかしてこの不信感だらけに見える社会は実は自分がそう見ているだけで、むしろ自分から始まっているのではないかと考えるようになった。そして、人間は基本的にこちらに好意を持っているし、表面には出なくても誰もが善意を持っているという前提に立つことに決めた。

この経験は私にとって大きかった。相手は変えられないが、自分の人間モデルはコントロールできる。そしてどのようなモデルを採用するかによって驚くほど相手の反応が変わった。それから大人も他人も怖くなくなった。がんばれという言葉が、そのままがんばれという言葉に聞こえるようになった。

もちろん個別に警戒しなければならないことや、本当に意地悪が強く出る人はいるだろう。それでも、前提としてまずどのような人間モデルで自分は外を見ているのかというのは自覚しておきたい。あの人は嫌な人なのではなく、お腹が空いている上に今日たまたま家で嫌なことがあっただけなのだ。


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