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選抜システムを考察する

この数ヶ月の社会で起きたさまざまな問題を「選抜」という概念で捉えています。私は多数ある中から少数を選ぶことを選抜だと考えており、高校野球の代表選考も、映画のキャスティングも、入社や入学も、旅行に誘われるかどうかも、組織の人事も、選抜という概念にふくむ事ができます

まず大前提として選ぶことは力を行使することだということです。選ぶ側は常に選ばれる側よりも強い立場に立ちます。そこに選ばれたいと思う人が多く、その思いが強いほど権力は強くなります。ゆえに選び方に一定の制約を設ける事が多いです。その制約のかけ方により「選抜力学」は変化します。

少し考えただけでも選抜に影響を与えるものは以下の四つあります。
①選抜基準は明確か曖昧か
②選抜する側の人数が多いか少ないか
③選抜する対象は広いか狭いか
④選抜して手に入るものは希少かそうではないか
これによって選抜の様相は随分と変わります。

例えば①ですがスポーツの選抜基準が曖昧な場合、ほとんど例外なく選抜される側から選抜する側への忖度が生まれます。私が知っている例ではあの大学に入ると代表に選ばれやすいという理由で、大学志願者が増えたりしました。ゆえに選抜する側が本当に権力を掌握するには、あえて選考基準を明らかにしないことが有効です。基準が明かされない人事は上司への忖度を促進させます。

曖昧な基準による恣意的な選抜は長期的にそのグループを弱くします。実力を高めることよりも選抜者への忖度が生まれ、誰かに気に入られたり選ばれやすいグループに入ることを優先するので、競争が歪んだり競争が緩んだりするからです。日本のテレビ、もしかするとエンタメかもしれませんが、世界で勝ちにくいのはキャスティングでの忖度が多い事もあるのでないかと私は考えています。実力で選べなければ、実力ある人はやる気を失いますし、アウトプットの質もまた低下します。

④これが希少であることは権力の源泉になりますが、インターネットが本質的に破壊したものはこれだと思います。「干される」という表現が昭和の時代にはありましたが、これはプラットフォームが限られていた時代だからあった言葉で、今やあちこちにあるので実力がある人を「干す」ことができません。

②の選抜する側の人数が多くなれば恣意性が減り公平になりますが、同時に目利きは弱くなります。形になった才能は民主的に選ぶ事ができますが、隠れた価値は優れた目利きでしか見つけられません。ゆえにスタートアップを発掘するベンチャーキャピタルやタレント発掘は少数の目利きによるやや独裁システムが有効になることが多いです。

逆に公平性を追求するなら選抜基準を明確化する事が重要です。ゆえに陸上や水泳の選抜者の権力はそれほど大きくありません。タイムや勝ち負けが明確がゆえに選ばざるを得ないからです。一方で、陸上選手が社会に出て苦しむ一つの理由に「社会の選抜のどろどろさ」があります。この人事のドロドロや組織内政治などにたいしピュアすぎるところがあるのは、あまりにも明確な基準で選抜されてきた事が影響しているのではないかと思います。逆に球技の選手の方が社会の選抜システムに慣れています。

人事権を持つ事が権力になるのは選抜する力を保つことを意味するからですが、流動性が高まると権力は弱くなります。その組織での出世の希少性は、その組織でなければ生きられない人にとっては高まりますが、どこでもいい人にとっては低くなります。ゆえに権力の維持には移籍の制限が有効です。逆に自分を解放するなら自分自身が居場所を変える覚悟を持つ事が重要です。

選抜には責任も伴います。いわゆる任命責任というものがそれにあたります。ある世代を境目に密室で決めたがるか、オープンに決めたがるか分かれているように思いますが、それは開かれた世界をイメージするか閉じた世界をイメージするかの違いではないかと思います。密室で決めたがるのはなぜかというと、その人をなぜ選抜するかという理由が貸し借りや複雑な人間関係がありすぎてあまりにも複雑なので、説明しづらいからだと考えています。

選抜システムは権力ですからこれを悪用する人が必ず出てきます。ここは性悪説で制限をかけないとおそらくいつまで経ってもなくならないでしょう。選抜システムが洗練されるためには、解放性、説明責任(どの程度の範囲の人に説明すればいいかは事例によります。量子力学領域の選抜などはおそらく説明されてもほとんどの人が理解できないと思われるので)、アウトプットの質の検証と次の選抜へのフィードバック、が重要ではないかと考えています。

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