イチロー選手が「最近の野球はつまらない」と言ったのはなぜか
年末に、イチロー選手と松井選手の対談があり、「最近の野球はつまらない」というお話がありました。データによって何をすべきかいいか答えが出てしまうことで、自分で考える楽しみが失われているのではないか、といった趣旨だと受け取りました。
スポーツの世界に25年、社会に出て12年過ごしていますが、二つの最大の違いは「ルール変更が頻繁に起こるか否か」です。
社会のルール変更はあまりに頻繁です。そもそも競技自体が変わる。または自分がなんの競技をやっているかを自分で定義しないといけない。
一方、スポーツのルールはほぼ変わりません。1876年には9ボール3ストライクでしたが、ピッチャーの技術向上に伴い徐々にボールの数が減り、1889に4ボールになりました。それ以降、微調整はありますが、野球の原型は変わっていません。それ以外のスポーツも100年基本が変わっていないものが多いです。
ルールが変わらなければ、最適解を出しやすくなります。データがあり、分析ができれば、ルールの中で最も目的に近づける最適解を見つけ出すことができます。これを私たちの時代は「自分で考える」と呼んでいました。
しかし、データが揃い、AIが発展した今では、人間よりも機械が見つけてしまう可能性が高くなります。野球のように一プレーずつで切られて、どんな意思決定をしたかがわかりやすい競技で起きたことは、いずれサッカーやラグビーのような流動的な競技にも起きていくでしょう。
これを面白くなくなったと捉えるか、どうかはわかりません。しかし、確実に言えるのは「誰も気づいていない戦術、技能を見つける喜び」は機械に取って代わられそうだということになります。
では、人間は機械に定められたことを粛々とやるしかないのか、全ての競争は言われたことを言われた通りやるイエスマン競争でしかなくなるのでしょうか。
私は戦術に関してはそうなる可能性があるものの、私は三つ人間が楽しめるものがあると思います。
「人間の心への洞察」
「意味への考察」
「できたの喜び」
食べなければ痩せるなんて古代ギリシャの時代ですらわかっていたことですが、人間は常に「わかっちゃいるけどやめられない」を繰り返してきました。人間は心を持っていて、心は思うとおりには扱えません。
意味を求めるのもまた人間のみです。世界は無意味と言えば無意味ですが、無意味に耐えられない人間が、意味を作り出します。
そして、身体を通じて探索し「わかった」「できた」という喜びは主観的体験である以上、機械がダイレクトに引き起こすことは不可能です。私が熟達への道が人間の喜びとして残されていると考える理由です。
人の心を洞察し、意味を求め(意味なんてないとしても)、「できた」に喜ぶ。これが人間の楽しみになっていくのではないかと思います。