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自分の中にある「揃わない前提」

 授業づくりネットワークNo.48『揃わない前提の授業を見る・感じる・考える』が発売されて少し経つ。私は横浜にある公立小学校の、玉置哲也先生の授業を見に行った時の記録を書いた。発売後、本当に少ないけれど、反応を頂いている。良い反応も鋭い批判も含めて、自分が書いたものが誰かに届き、反応があることが素直にうれしい。
 国語の先生で、ライティングワークショップを実践するあすこまさんのブログに本書の書評があった。いつも楽しみに読んでいるブログに、自分の記事のことも書かれていて恐縮する。


「揃わない前提」に私は入っているか

 さて、極めて局所的に、しかし着実に拡がりつつある「揃わない前提」という言葉だが、 ちょっと気をつける必要があると私は思っている。今回はその辺りのことをだらだらと書きたい。
 「揃わない前提」についてこんな感じの感想を聞く、見る。

「ほんと、今の教室は揃わない前提を痛感します。揃わない前提に立って授業を考えたいです!自由進度学習とか探究とか、新しい学びをもっと取り入れよう。」
「揃わない前提なんてのは昔からあります。以前から子どもたちが多様で揃わないのは当たり前。その上で何を揃えるのかを考える。それは今も昔も変わりません。」
「インクルーシブを語る上では揃わない前提を持つことは必須。そういう揃わない子どもたちの育ちを見るまなざしが大事。」

 子どもたちは様々な特性やバックグランドを持っている。だから、これまでの一斉一律の揃えようとする授業を考え直さなくてはならない。子どもたちには揃わない前提が存在する、ということを実感することができたら、本書の目的はそれなりに達成できているのかもしれない。

 だけど、なんだか違和感を感じる点がある。それは、「揃わない前提」は自分以外のところにある、という考え方が根底にあるんじゃないか?ということである。自分は揃わない前提の外にいる。むしろ自分は揃えるべき時は揃えられる空気が読める人間だ。だから自分は、揃わない前提にある子どもたちの存在をできるだけ認めて、受け入れていかなければならない。そんなふうに揃わない前提を捉えていないだろうか。揃わない前提の子どもたちと、そうじゃない自分、というような。揃わないという言葉が、揃えるという行為者の視点から見た言葉であることには、十分に気をつける必要があると思う。
 だから、「揃わない前提」を語る教師自身も、どうしようもなく揃わない前提のひとりである、ということを忘れてはならない。
 でないと、「揃わない前提」に立って何かをやろうとしたときに、自分がこれだと思っている価値観ややり方を子どもに押し付けたり、同僚の教員に対して学んだことを振りかざしてマウントをとったりしてしまいそうだ。そのくせ、自分にその批判が向いたときに、「自分の理想の教育が正しいのに、周りは分かってくれない」と塞ぎ込んでしまう。子どもたちは揃わないと言っておきながら、自分と他者の揃わなさを許容できていない。
 まあ、私のことなのだが…。

自分の中にもある「揃わない前提」

 もっと言えば、自分の中だって揃わない前提にあるのではないか。
 例えば私は教員としての自分、親としての自分、バンドをやっている仲間の前での自分など、いろんな属性に応じて役割を演じる自分がいる。さらに、教員としての自分だけを取ってみても、子ども一人ひとりのやりたいを大事にしたい自分、子どもたちを揃えたい自分、ある子どもをみてイライラしてしまう自分、そういう自分を隠して平静を装う自分など。全くもって揃っていない。その自分の中にある揃わない前提の上で、その場その時で行為を選択して行動している。
 それは子どもたちも同じなんだと思う。学校にいる時の自分なんて、教師も子どもも、自分にある揃わない前提の中の、ごく一面を見せ合っているだけかもしれない。しかし、子どもの特性や子どもたちの揃わなさについて教員が語るとき、子どものごく一面である特性だけで、その子どもの全てを捉えたかのように判断してしまうことが多い。
 さらに教員は、子どもの特性だけに焦点をあてて、そこを教育によって何とかしなくちゃいけない、という教育の物語を描きがちだ。教育の物語は、ものすごく強固に、何かが「できない」ことを「できる」ようにさせるという枠組みを教員と子どもに強制する。
 子どもは、自分の中にあるごく一面だけに焦点を当てられる教員からのまなざしによって、その一面がより際立つことになる。なぜできないんだろう?できるようにするには?という問いからお互いに逃れられなくなる。

「揃わない前提」を言葉にしてみる

 「揃わない前提」を語る教員自身も、どうしようもなく揃わない前提のひとりであることを忘れてはいけないと思う。そこを忘れたら、自由進度学習も子ども一人ひとりを見ようとするまなざしや熱意だって、見栄えは良いが子どもを縛り付ける装置として働く。「多様性」とか「誰一人見捨てない」みたいな言葉と同様、多数派が少数派を包摂するような言葉にもなりかねない。
 ただ、自分の中の揃わない前提を認識するのって、とても難しい。人間は自分の思考や感情を、頭の中でつい単純化して、一つの行為に収束させてしまいがちだ。だからこそ、ちょっとした違和感や面白さを、いったん言葉にしてみることが大切なんだと思う。出てきた言葉を反芻したり、誰かと共有して話していたりするうちに、自分の揃わなさに気づくのかもしれない。

 なんだか書いていて、やっぱり説教くさい教育の物語に絡め取られそうになってしまった。なのでこの辺でやめておく。夏休み、楽しみましょう!




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