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ワールド・カフェとは何かという視座 〜アニータ・ブラウンさんとの散歩を振り返って〜

私が住んでいる街は、都内でありながらも近くに豊かな森が多い。この季節は、早朝に散歩をすると、鶯たちの鳴き声が新緑の中で響き、世界の美しさを実感する。

今朝も家族で散歩している際に、ふとフェイスブックを眺めてみると、過去の思い出の写真が表示される。7年前、2013年の今日(4月26日)はテネシー州ジョーンズボローにて、ワールド・カフェ(World Cafe)の創始者であるアニータ・ブラウン(Juanita Brown)さんと一緒に散歩していたらしい。

アニータ・ブラウンさんとは、書籍「ワールド・カフェ〜カフェ的会話が未来を創る〜」を翻訳に携わるご縁をいただき、それ以来、言葉で表しきれないくらい多くのことを学ばせていただいてきた。この日は、ストーリーテリングの街として知られるジョーンズボローののどかな町並みを二人で散策しながら、会話を交わす機会に恵まれた。今振り返ってみても、この上なく贅沢な時間。

お互いに経験や想いを語り合う中で、会話の中心は「なぜワールド・カフェという名前になったのか」という問いへ。

「ワールド・カフェの話し合いが奇跡のように生まれた時、このカフェでの話し合いはWorld Service(世界奉仕)につながる可能性があるんじゃないかと思ったのよ」と感慨深そうに語るアニータ。

そこからカフェでの会話が世界に貢献することを願ってワールド・カフェという名前がつけられたとのこと。対話を仕事の中核とする私たちは、これから世界やコミュニティにどう奉仕できるのか、そんなことをたくさん話し合った午後のひとときだった。

時計の針を現在に戻す。奇しくも、先週は、私が所属するヒューマンバリューにて、ワールド・カフェを話題に、仲間たちとダイアログをしたところだった。

ヒューマンバリューでは、Appreciative InquiryやOpen Space Technologyなど、様々な組織開発の方法論を探求するプラクティショナー養成コースを10年以上実施し続けている。私は、2009年からワールド・カフェのコースを担当させていただき、数多くのプラクティショナーとともに、表面的な手法を超えた、カフェ的会話が持つ哲学や世界観、そしてリーダーシップについて、実践を交えながら探求する機会を毎年楽しみにしていた。

しかし、今年は新型コロナウィルスの影響で世界は根本的に変わってしまった。そんな中でワールド・カフェの探求と実践を行うことは果たして必要なことなのか、どんな意味があるのかについて、仲間たちと正解や結論を求めずにオープンに語り合った。

ワールド・カフェの真髄のひとつにCross-pollinate(他花受粉)がある。会話という媒体を通して知と知が混じり合い、新たな知恵が生まれるプロセスは、カフェをカフェたらしめる象徴的な瞬間といってもいいだろう。

その他花受粉は、ソーシャル・ディスタンシングが不可欠の世界において、大きな制約を受けることになった。濃厚接触を是としない世の中で、会話はどうつながりを生むのだろうか。

ひとつの選択肢として真っ先に思いつくのは、オンラインによる代替であろう。このコロナ騒ぎの以前から、エイミー・レンゾ(Amy Lenzo)ら素晴らしいホストたちが中心となって、オンラインでのワールド・カフェの実践やネットワークが広がり成果を上げてきた。ここ数ヶ月の世の中の動きを見ても、Zoomによるオンライン対話が数多く行われていることが、私たちのつながりを保ち、勇気づけることに貢献しているように思う。

しかし、その一方で、自分が向き合う問いに対する違和感も残り続けている。はたして私たちプラクティショナーが向き合うべきは、「ワールド・カフェをいかに現在のオンライン環境に適応するのか?」という問いなのだろうかと。

対話について考える時、私はよくアニータが語るワールド・カフェが誕生した時のストーリーを思い出す。知的資本のパイオニアたちが集う、ある雨の日のミーティングにおいて、ゲストから集合知が立ち上がるようなホスピタリティに溢れる場とはどんなものなのかを考えながら、偶発的に生成され、発展してきたのがワールド・カフェであった。

このストーリーは私たちに多くの示唆を与えてくれる。対話とは何かというグランド・セオリーが最初にあり、それが適応されたわけではない。私たち人間に生得的に備わっている共生と創発の力をいかに解放していくかという問いと行為の中から自然発生的に生まれてくるものにこそ本質的な価値があるのだと。

そうした視点から現在を眺めてみると、私たちは今、根本的な環境変化を余儀なくされ、おびただしい数の新しいエクスペリエンスを毎日のように集合的に体験している世界にある。こうした体験の中から、次第に新たな人のつながり方や働き方、組織や社会のあり方が生まれてくる瞬間をまさに私たちは生きているのだろう。

そうした瞬間に身を置くプラクティショナーとして、向き合うべきは表面的に会話をつないだり、代替することではないのかもしれない。

探求すべきは、「新たな働き方や生き方の哲学、組織観が育まれ、シフトしようとしているこの瞬間において、創発や共創のあり方はどう変わろうとしているのだろうか?」「そこから何を学べるのだろうか?」「その中で対話や対話型リーダーシップが果たす役割はどう変わり、進化できるのだろうか?」といったより根本的な視座を問うものであるのかもしれない。

そして、こうした問いと共に毎日を生き、日々の変化に真摯に耳を傾け、社会に寄り添い、実験を重ねながら、答えを出すことを急がずに、進行形で問い続け、少しずつ新たな知恵としてグラウンディングさせていくことが、自分自身に与えられた役目やプラクティショナーとしての生き様ではないだろうか。

そんなことを仲間との対話から考えた時間だった。

ジョーンズボローでの散歩から7年が経過した今、アニータは元気にやっているだろうか。アメリカに行くことはしばらくかなわないが、今一度空間を超えて知恵の小径を歩きながら、プラクティショナーとしての生き様について、そして今の時代に対話がいかにWorld Serviceになりえるのかについて、アニータと言葉を交わしてみたいと思った。