見出し画像

「女性」の葛藤をテーマに書くのは難しい。小説だから出来ることと小説じゃないけど書き続けること

昨日行われた「ここから何か生まれるかも会議」の中で佐渡島さんが、
今の社会の仕組みはまだ男性中心。『女性は働いていても主婦もやるし子育てもやるよね』、がまだ今の社会。規範から少しずれた女性の葛藤はまだ描かれていないからこそ、井川さんにそれを小説の中で書いて欲しい」と言っていた。
(音源はコチラで角田さんがアップしてくれています!その他、文学論、作家とは?メディアとは?などが聞ける「ここ何会議」気になる方は是非チェックを!!)

それを書いて、「女性」をテーマに書く難しさをひしひしと感じた。ドキュメンタリーとして書くと(インタビューや実話など)、「それでもあなたの場合はお金あるからいいじゃない」や「実家が近いから成り立つよね」など、何かしらの反感を買ってしまうのが「女性」をテーマとしたものだと思う。

現に私も育児のことを書く時にすごく気を遣う。「それでも私は恵まれている身かもしれないのに、こんなこと書いていいのだろうか」と思い、躊躇して書けないこともある。

と同時に、私自身もインタビュー記事を読むと、「この人は実家に気を遣わずに頼れるからいいよなぁ」とか、「キャリアを築いた上での出産・育児だから出来たのか…」とか、そういう嫉妬に近い思いを抱いてしまい、自分の嫌な面に直面させられる。そんな風に感じてしまって、本当私って嫌な奴だな…という思いに駆られて凹んだりする。

「こういう人がいるから、私も頑張ろう!」と思える時ももちろんある。けれど、疲弊しきっている時にはそうは思えない。前向きになれるのは自分に余裕がある時だけなのだ。

私の葛藤で考えると、飲み会やオンラインサロンのイベントの際に子供達を誰か(私の場合は母か義理母かシッターさん)にお願いする時、お願いする手配やそのやりとりは当然全て私が担う。自分が行きたいんだから当たり前だし、行ける状況に感謝をしようと思う一方、旦那はそういったこと何も気にせずに好きな時に好きなように飲みに行けてズルいよな…とか感じてしまう。

私の子、じゃなくて、二人の子なのに…」という葛藤って、その考えがベースでは無かった時代のほうがむしろ幸せなんじゃないかと思ってしまうことって沢山ある。

知らぬが仏」では無いけれど、「女性も活躍!」「女性でも出来る!」「子育ては夫婦のもの!」という知識が知れてしまう時代であるからこその苦悩も確実にあるのだ。(ことわざって本当絶妙!)

それをこうして書くとすごく生々しい。(これでも心の底のドロドロは極力減らして書いている…w)

そのくらい、今だからの葛藤、そして状況がひとりひとり違うからこその書く難しさが「女性」というテーマにはある

だからこそ、「小説」という形で読めると、抵抗無く入ってくるものなのかもしれないと強く感じた。

「小説」はフィクションだ。出てくる登場人物は自分とは違う状況だけれど、自分の思いや感情がそこにある。だから私は昔から小説をこよなく愛してきたんだろう。

私がこの数年で読んだ小説の中で、非常に感銘を受けたのはコチラ。

平野啓一郎さんの「ある男」では、表面からだけでは人の人生とは何一つ分からない、ということが素晴らしく描かれていて、主人公のような男性では無いし、シチュエーションは何もかも自分とは違うけれどすごく心動かされた。

フィクションという形で作品を出すのは、書く中で最上級に難しいことだと思う。佐渡島さんが「小説を書きませんか?」と声をかける人は、「世界観をつくりきれる人」だと言っていた。

私は自分に小説が書けるとはつゆほど思わない。けれど文章が好きだし、文章で思いを伝えられたらいいなとは思う。

冒頭で紹介した「ここ何会議」では、文学論や社会論が聞けて、「自分の中にある言い表せない感情とはこういうことだったのか」が毎回発見出来る。小説執筆依頼を受けた井川さんは人間の「やるせなさ」という感情をすごく明確に描ける人で、私は井川さんの作品を毎回心待ちにしている。

そして会から得た発見を留めずに出し続けることが大切なんだというのが私なりの学びの一つだ。

もっとうまく書けて伝えられたらいいのに、それがまだ出来きれない自分がもどかしい。。。

けれど、私は「女性」であり、私には感じることが沢山ある。だからこそこれからも書き続けたい。


最後までお読み頂きありがとうございました(^^)
Twitterはこちらでやっています!フォローして頂けたらとっても嬉しいです!


この記事が参加している募集

書けども書けども満足いく文章とは程遠く、凹みそうになりますが、お読みいただけたことが何よりも嬉しいです(;;)