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活気あふれるローマ, イタリア part I 〜 1983年7月(写真13枚)

1983年4月26日に横浜港からのフェリーで発ってスタートさせたユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行の諸国行脚。日本を出てから70日目, 1983年7月4日に, フィレンツェを発って着いたのが ローマローマ には 7月4-8日の4泊5日滞在したけれど, 今日はその part I, 数字の I はローマ数字! .. !は感嘆符(笑)。

12番目の滞在国 イタリア では, ヴェネツィア(*1)に 7月1-2日の1泊2日, フィレンツェ(*2)に 7月2-4日の2泊3日, ローマに 7月4-8日の4泊5日(7月6日にはヴァチカン市国も見物), ナポリに 7月8-9日の1泊2日(7月8日にはポンペイの遺跡も見物)している。その後はナポリを 7月9日の夜行列車で発ってブリンディジに向かい, 翌7月10日朝ブリンディジ着, 街をぶらついたりして過ごした後, その日の夜の船便でブリンディジの港を発ち, ギリシャに向かっていて(7月11日にギリシャのパトラに着いて, そこから列車でアテネへ), そういうわけで, イタリア には夜行列車の1泊を含めて 9泊10日滞在したことになる。

*1 ヴェネツィア

*2 フィレンツェ

当時の旅日記を捲りつつ, 映画を 〜 「ひまわり」, 「ローマの休日」, 「1900(年)」

先に書いておくと, 「ひまわり」は 1970年公開のイタリア・フランス・ソ連・アメリカ合州国の合作映画で, 「1900(年)」(イタリア語の原題 Novecento は 1900, 1900年代, 20世紀という意味であって「1900年」という邦題は誤訳になるようだ)は 1976年公開のイタリア・フランス・西ドイツ・アメリカ合州国の合作映画。共にイタリア(等)の映画と言っていいが,  舞台は ローマ ではない。一方, 「ローマの休日」は舞台は ローマ ながら, 1953年公開のアメリカ映画。

上の段落, 「ソ連」だの「西ドイツ」だので時代を感じさせるけれど, 筆者が旅した1983年当時も 2週間ほど旅した前者はまだソ連で, 2週間余り(出たり入ったりのトータル)旅した後者は西ドイツ, それでもって現在のドイツの首都ベルリンは西側がまだアメリカ合州国・イギリス・フランスの占領下にあった西ベルリンで, 西ベルリンに滞在しながらチェックポイントを渡って日帰りの旅をした東側は, 東ドイツの首都・東ベルリンだった(イタリアに入る前までのそれぞれの旅 note に関しては本 note の最終章にて)。以上, 本章の脱線段落。

さて, 1983年7月4日付の自分の旅日記の冒頭にこんなくだりがあり(後で掲載),

フィレンツェ - ローマ間 車窓から ひまわり畑 がずいぶん見える。きれいだ。

ひまわり畑 でつい思い出してしまうのが, 映画では イタリア のではなくて, ソ連(厳密に言うとソ連の中のウクライナ, 「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の中の「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国」, 現在は1991年8月24日に[1991年12月26日に解体する前の]ソ連から独立したウクライナの領土)の ひまわり畑 だったけれど, 1970年公開, イタリア の名優ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが共演した名作「ひまわり」。

筆者はロシア語はスパシーバ(ありがとう)とダスビダーニャ(さようなら, また会いましょう)とドーブラエウートラ(おはよう)ぐらいはまだ言えるけど(言えるだけ!), ウクライナ語は知らない。だけど近いから, 似ているところはあるのではと思う。ただ, 映画「ひまわり」でジョバンナ(ソフィア・ローレン)が ひまわり畑 の中で「ソ連の」老婆に夫のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の消息を尋ねるシーン, その老婆が語っている言葉ははっきり, ウクライナ語, ということらしい。というか, そこはウクライナなんだから, 少なくともその老婆がウクライナ人である限り, 当然かつ自然なことだったわけだけど。

そうだった, 物語の時代設定上も(1940年代から50年代), あの映画が撮影され公開された時も(1960年代末から1970年), そして筆者が旅した 1983年も, あの映画の「ひまわり畑」を含む, あの辺りの広い広い広〜い一帯は「ソヴィエト社会主義共和国連邦」ということになっていて, 当然のようにビートルズが "Back in the U.S.S.R" を歌った1968年においても, あの広大な土地は全てソ連, the U.S.S.R. の支配下だった。

ソ連の旅 notes は, 以下リンク先 note の第1章「今日まで U.S.S.R., つまり ソ連 にいたもので」にあるモスクワ旅 note, 及び, そのモスクワ旅 note の第4章「... モスクワに辿り着くまでの話」にある各リンク先の note, これじゃとりあえず映画じゃなくて自分の note の宣伝!

閑話休題

20世紀の イタリア を代表する, いや20世紀の世界の映画, 映画の世界を代表する名優同士, 一時は本当に恋人同士でもあった, マルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni, 1924年9月28日生まれ, 1996年12月19日他界)とソフィア・ローレン(Sophia Loren, 1934年9月20日生まれ, 2021年7月5日現在もめでたく健在, 長生きしてください!)が共演した, 20世紀の映画のランキングを作ったらトップの何位に入るだろう, くらいの傑作名作映画「ひまわり」,

そういうわけで, この YouTube クリップの説明字幕は無くていいのではだけど。

映画「ひまわり」は, イタリア では 1970年3月14日公開, ソ連では 1970年5月24日公開, そして日本での公開は 1970年9月12日, おっとこれは拙者=筆者の10歳の誕生日の翌日のこと。小学校4年当時, 映画は日本の一大娯楽と言えるものの一つで(今だって名実ともに立派な娯楽ながら), 当時人口2万余程度の筆者の田舎町にも映画館はあったけれど, この映画は残念ながら映画館では観ていない。

その田舎の映画館にまつわる話。これってアメリカ映画「卒業」だけど(笑)。小学校6年の終わり頃, リヴァイヴァルでやってきた「卒業」を観に行ったら, なんと上映時期直前にその映画館, 廃業に追い込まれていたという, 些か哀しい話, そして「卒業」の話。

脱線した。でも, もうちょっと脱線。

3歳年上の兄貴が中学校1年の頃からしばらく映画に凝ったので, 家には雑誌「スクリーン」がいつもあったりして, 小学校4年から6年にかけて頃の弟の方も影響を受け, ガキながらだいぶ映画好きになった。マルチェロ・マストロヤンニやソフィア・ローレンも当たり前のように知ってなくちゃならないレベルの有名男優・有名女優で, 同じく彼らが共演した1960年代前半期の映画「昨日・今日・明日」なども懐かしい映画タイトル。そういや, 「昨日・今日・明日」の監督も「ひまわり」と同じ, イタリア のヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica, 1901年7月7日生まれ, 1974年11月13日他界)。

ひまわり」, ひまわり畑 に話を戻す ♫

イタリア系アメリカ人の作曲家, ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini, 1924年4月16日生まれ, 1994年6月14日他界)による映画「ひまわり」のテーマ音楽 ♫

本章の冒頭で触れたように, 映画「ひまわり」は 1970年公開のイタリア・フランス・ソ連・アメリカ合州国の合作映画で, ソフィア・ローレンが演じたジョバンナはナポリ出身の女性, ジョバンナとマルチェロ・マストロヤンニが演じたアントニオが恋に落ちたのはおそらくはナポリ, 二人が結婚してアントニオの対ソ連戦線への出征前に束の間の新婚生活を送ったのはミラノ。そしてこれも書いたように, 映画「ひまわり」の ひまわり畑 は, 当時のソ連のウクライナ(現在の独立国ウクライナ)で撮られたもの。

それでも イタリアひまわり畑 が結びつくと, あの往年の名作を想い出してしまうのだった。

フィレンツェ - ローマ間 車窓から ひまわり畑 がずいぶん見える。きれいだ。

以下, 1983年7月4日の旅日記, 殴り書きメモ(怒ってないけど字が粗い, 荒い, 笑)の冒頭より。上に引いた「ひまわり畑」のくだりの前までの 6行は, フィレンツェ駅でのこと。

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当時のレートは 1 US dollar がおおよそ 250円ぐらいだった。だから三国間を無視してアメリカ合州国の通貨と日本の通貨との間の為替レートの変遷だけで大雑把に計算すると, この時の宿代1泊分は, 今なら 900円程度になるだろうか。

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旅日記, 殴り書きメモ(怒ってないけど字が粗い, 荒い, しつこいか, 笑), 次の頁より。

ローマは活気にあふれてる ってかんじ。みんな楽しそうだし どこか生き生きとしてる ... このフンイキは好きだ。

その後, 「災難がオレ自身にふりかかってきたら 困るがね」と出てくるのは, 勿論のこと, 「ドロボーやサギ」の災難は誰にふりかかってきても不幸だけれど, その時の自分は何しろ "貧乏旅行" 中のバックパッカー, 常に持ち金は "なけなし" という意識が必要だった。当然ながら, おいそれと「ドロボーやサギ」に引っかかるわけにはいかない。

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1983年7月5日 の旅日記より(日記は何しろ殴り書きメモ, 所々に個人情報等あったりで時折り省きつつ), なんつーか, 字が汚ない, やむをえまい(笑)。

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スペイン広場, スペイン階段

1983年7月5日撮影, ローマ滞在時の筆者の恋人と筆者(背が高すぎないか, 大谷翔平じゃあるまいし) https://youtu.be/MXu4h9vXy7s

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1983年7月5日, 筆者撮影(これは ほんと)

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1983年7月5日撮影, ローマ滞在時の恋人と筆者 https://youtu.be/867Fl8WH3nk ♫ モノクロに色を付けてしまってる。そもそも俺は純ジャパ顔のはずだ。

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美し過ぎるオードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn, 1929年5月4日生まれ, 1993年1月20日他界)が, グレゴリー・ペック(Gregory Peck, 1916年4月5日生まれ, 2003年6月12日他界)と共演した1953年公開のアメリカ映画, 「ローマの休日」。オードリー・ヘプバーンはイギリス人, グレゴリー・ペックはアメリカ人。  

オードリー・ヘプバーンさんは, スウェーデン出身のイングリッド・バーグマンさん(Ingrid Bergman, 1915年8月29日生まれ, 1982年8月29日他界)と並ぶ, 20世紀の映画界が生んだ, 文字通り「世紀の」美人女優だったのではないかと。「世紀の」って言葉は厳密には「一世紀に一度あるかないか, 一人いるかいないか」って意味かよ, どうしよう(笑)。いわゆるひとつの(長嶋茂雄かよ, 笑)「典型的な美人顔」という括りで捉えさせていただくと, 少なくとも拙者の前世紀「美人顔」鑑定によれば, 若干, イングリッド・バーグマンに分があるものと思われる。

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スウェーデンのストックホルムで 1915年8月29日に生まれたイングリッド・バーグマン ... 1983年の初夏, ストックホルムを訪ねたのだが, この絶世の美女は既に他界されていたのだった。イングリッド・バーグマンが亡くなったのは 1982年8月29日(誕生日と同じ日), しかしそもそも, この世を去った場所はイギリス, ロンドンでありました!

再びの, 閑話休題

1983年7月5日の, イタリアローマ に戻る。

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コミゾ は, 以下のフィレンツェ note の「フィレンツェ, 殴り書き旅日記 〜 1983年7月2-3日」の章, その中の, 旅日記, 殴り書きメモ, 6) 7) でも言及がある。  

Comiso (Sicilian: U Còmisu), is a comune of the Province of Ragusa, Sicily, southern Italy.

アメリカ合州国(および NATO かな)が, この Comiso に核兵器を配備しようとしてたんだと思う。その後どうなったんだろうか。兎に角あの頃のヨーロッパでは反核運動が盛んで(おそらくとりわけ西ドイツ, イタリア, ギリシャ等), イタリアの後に訪れた, 次に旅したギリシャ(アテネとサントリーニ島合わせて1ヶ月ほど滞在した)でも, アテネにいた時に「ヒロシマ・ナガサキ」の時期を迎え, その地で非常に大きな反核・平和運動のデモに遭遇したりした。

さてさて, 続けて。

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再びの, さてさて。

最後は無理矢理の, 映画「1900(年)」(原題は, Novecento)。1976年公開の, イタリア・フランス・西ドイツ・アメリカ合州国の合作映画。

イタリア語の「Novecento」は「1900」という数値の意味である他に「1900年代」「20世紀」という意味があり、邦題は誤訳である。
1901年生まれの、異なる階層出身の幼馴染の2人の男性の生き方を中心に、20世紀初頭から第一次世界大戦、ファシズムの台頭から第二次世界大戦の終了までのイタリア現代史を描く。

この映画は「本国」イタリア で 1976年8月16日に公開されていながら, 日本の映画館で上映されたのは随分と後で, 本邦 1982年10月23日公開。1979年春から大学入学で札幌に住んだ筆者, 観たのは札幌時代(この note には本作のことは書いてないけれど!)。

映画「1900(年)」, 原題 "Novecento" の監督は, その他に「暗殺の森」(1970年), 「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972年), 「ラストエンペラー」(1987年)などを監督した, イタリア人 の映画監督ベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci, 1941年3月16日生まれ, 2018年11月26日他界), 音楽はやはり イタリア人 の作曲家エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone, 1928年11月10日生まれ, 2020年7月6日他界)。主演はロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro, 1943年8月17日生まれ), ジェラール・ドパルデュー(Gérard Depardieu, 1948年12月27日生まれ), そして麗しのドミニク・サンダ(Dominique Sanda, 1948年3月11日生まれ)。

ロバート・デ・ニーロはもちろんアメリカ合州国の俳優, ジェラール・ドパルデューについては全く詳しくないけれどフランスの俳優, 2013年にロシア国籍を取得してるようです(何故だろう, しかしまぁいいやここでは!)。麗しのドミニク・サンダはフランス人, パリ生まれ, パリジェンヌです。

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小学校4年ぐらいから中学入学頃にかけて, 先に映画に凝った3歳年上, 当時中1から高校入学頃の兄貴の影響で洋画に嵌った第一期, 筆者が好きな女優はドミニク・サンダとキャサリン・ロスだった。全然タイプ違うな(笑)。学生時代に「アニーホール」や「レッズ」を観てからはダイアン・キートン。またしてもタイプが違うけど, しかし同じであるはずもないか。

兎にも角にも, "Novecento"

ではでは, 

次章ではガラッと趣向を変えて ♫

フィレンツェ・ローマ間の車窓から観た「ひまわり畑」を想い出しつつ 〜 ひまわり ♫ 〜 「向日葵 10.9」(仲井戸麗市, "DADA", 1993年)

前章にも載せた, 1983年7月4日の旅日記, 殴り書きメモ(怒ってないけど字が粗い, 荒い, 笑)からの 1枚を, しつこく。

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フィレンツェ - ローマ間 車窓から ひまわり畑 がずいぶん見える。きれいだ。

向日葵 10.9 〜 仲井戸麗市 "DADA"

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

ローマ 〜 1983年7月5日(写真13枚)

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5) 女性の写真を撮っている人は拙者ではありません。これを接写しているのが拙者。拙者=筆者は当時22歳, 髪は豊か, 幸いというか何というか, 昨年「還暦」を迎えたという今現在も, 髪は豊かなのであった。

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7) これはスペイン階段を上った最上部にある展望テラス, その2段階になってるテラスの, 上のテラス(に違いない, 何しろ38年前の記憶!)。 

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8) 写真, 右から左に歩いている, まさしく闊歩してる女性, カッコいいね。

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9) ちょっと時代を感じさせるかも, の, ソヴィエト1917-1940 写真展, 横断幕。

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10) 前々章にも載せ, 若干の説明を付した, その旅日記の頁から。ここで言及している反核・平和運動の署名の様子を撮った写真は, この下。

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前々章でも書いたけど, あの頃, ヨーロッパ各地で反核運動が盛り上がっていた。

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11) 当時の旅日記, ここだけ取り出したら, 文字がでっかくなっちまった(笑)。スイカ売りの写真は, この下。

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ここでスイカを 2切れ食ったのだ。

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12) 13) 以下の, 旅日記からの写しの下に, 日記で触れている写真を 2枚続けて掲載する。冒頭の「安いと思う。うまかった。」は, 上の写真, スイカのこと。

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その「カップル」,

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そして「トランプおじサンたち」。

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さてさて。

イタリア に辿り着くまでの日々

前回のフィレンツェ note の最終章でも同じことをした, イタリア は最終目的地だったわけではないけれど, とりあえずの極私的「振り返り」用。

以下リンク *1 の note 第4章 1983年4月26日横浜港発のユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行, ここまでの振り返り に出発前, 出発, ソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー, デンマーク, ドイツ(「ベルリンの壁」崩壊前で西ドイツ!), そしてアメリカ合州国・イギリス・フランス占領下の西ベルリン, 東ドイツの首都だった東ベルリン, ベルリン・ケルン経由でフランス, そしてスイス, 再びの西ドイツ, それらの各 note へのリンクがあり, 

その後に行ったオーストリアはその note 第1章, 

その後, オーストリアの首都ウィーンから行った当時のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードについては以下リンク *2 の note にて, 

そしてベオグラードから戻った再びのウィーンは *3 の note にて。その「2度目の滞在」のオーストリア・ウィーンを後にして向かったのが, イタリアローマ の前に行った ヴェネツィアフィレンツェ については今日のこの note の冒頭「前説」部分にリンク)。

*1 音楽の都ウィーンにて, ギターを教える日本人とドイツ語教師のオーストリア人のカップルのお世話に 〜 1983年6月22日&..

*2 ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都だった, ベオグラード 〜 1983年6月, 3泊4日

*3 「音楽の都」オーストリア・ウィーン, 2度目の滞在 〜 1983年6月28-30日


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