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1983年10月7日、イスラエルのテルアビヴで、パレスチナのガザから来たパレスチナ人一家と出会った時のこと

先月11日、2019年9月11日に note に新規登録、これまで 911 アメリカ同時多発テロに関わって 3本、「ボブ・ディランの不都合な真実」(パレスチナ・イスラエル問題に絡むもの)について 2本を投稿し、ディランについては続編を予定していますが、前回は 1983年10月4日にイスラエルのハイファを訪れた時の自分の日記を転載しました。今日は、それから 3日後の 1983年10月7日に、同じくイスラエルのテルアビヴで、その日、パレスチナのガザ地区からテルアビヴにやって来ていたパレスチナ人一家に出会った時のことを書きたいと思います。

当時、私は 1983年4月から 1984年2月にかけてユーラシア大陸をほぼ一周する形で(もっともパレスチナのガザ地区に滞在したのち陸路でエジプトに行っているのでアフリカ大陸もかすめましたが)バックパックを背負っての海外貧乏旅行一人旅をしていましたが、その際、9月から10月にかけて 3週間ほどはパレスチナとイスラエルを旅していました。その10ヶ月にわたる旅の間つけていた日記を最近になって家の押入れから引っ張り出し、35年ぶりくらいに開いてみたのですが、そのうちの 1983年10月7日付けの日記のなかから、表題に関わる部分を抜き出したいと思います。

前日、ハイファからテルアビヴに来た私は、同地にあるユダヤ人のディアスポラ(離散)に関する博物館を訪れていました。色々な意味で、非常に面白い、興味深い内容の博物館だったのですが、それについては、また機会があったら、この note に投稿したいと考えています。

さて、1983年10月7日の話に戻ります。以下は、当日つけていた日記から、表題に関わる前半部分の転載です。なお、日記ですから、全く推敲していない文章です。それを一字一句そのまま、載せたいと思います。ただし、分かりやすくするため、一部に若干の注記だけ入れます。

1983年10月 7日(金)

今日も YH(注: ユースホステル)。翌朝めし込みで 345シュケル(注: 当時、1シュケルは日本円にして約 4円でした)。バスで Old Jaffa へ。

モスクに入った。細々とだが、使われてるようだ。中の広場で若いパレスチナ人が何か作業してた。No Entry とあったが、広場へ入れてくれた。アラビア語であいさつだけした。外を歩いても、よくアラブ人(注: パレスチナ人)を見る。かなりいるのではないか。

モスクが改造されてレストランになったようなのをいくつか見た。

少し登った芝生のところで、アラブ人らしい家族を見る。話しかけてみると、やはり、パレスチナ人だった。たくさんいた。ガザから来たとのこと。

(注: パレスチナ問題を知る人には常識的なことですが、現在、ガザ地区はイスラエルによって封鎖されており、物資がなかなか入らないだけでなく、ガザ地区のパレスチ人は隣接するエジプトはおろか、イスラエルが国連安保理決議に違反して半世紀以上にわたって違法占領し続けている、しかし現在は建前上は「パレスチナ自治区」であるはずのヨルダン川西岸地区にすら、行くことができません。ガザ地区はイスラエルの封鎖のせいで医薬品すら不足しており、ヨルダン川西岸地区や東エルセレムなどにある病院で治療を受けたい重病や難病の人たちがいるのですが、彼らすらガザ地区を出ることは容易ではありません。ガザ地区は、物資、人間、全てがイスラエルによってその出入りを厳しく管理されており、また、電力供給もカットされているため、1日のうち4時間ほどしか電気が使えないような劣悪な生活環境の中、ガザに住むパレスチナ人たちはいわば「陸の孤島」となったガザ地区に閉じ込められ、そこはさながら世界最大のゲットー、あるいは強制収用所と化しています。私がガザ地区を含むパレスチナやイスラエルを旅した1983年秋、その当時はガザ地区は夜間外出禁止令下に置かれており、夜になるとイスラエル軍の戦車が我が物顔でガザの街の道路を行き来していたものの、しかしながら、ガザ地区は現在のようには封鎖されておらず、パレスチナ人はガザ地区から出ることが可能でした。)

(注: ガザから来ていたパレスチナ人たちは私に)パンやくだもの、コーラをくれた。子ども、娘、青年、父、母、祖母など。

住所を教えてくれた。Nassr School とある(そういえば下で、Nassr School と書かれ、他にアラビア語もあったミニバスを見た)。子どもも Nassr School に行ってる。

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Amin が一番話したおじさん。Abed は Nassr School 12年生、27歳。Eziz は他の学校の電気の先生。

「ここはイスラエルではない。パレスチナだ。」(注: 彼らが話した言葉。実際、1948年5月にイスラエルの一方的な建国宣言がなされる前までは、16世紀以降オスマントルコ領となったこの地パレスチナ <ただしオスマン帝国下ではシリアと呼称されていました> は、ここテルアビヴのある土地も含め、第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊したのち、イギリス委任統治下とはいえ再びパレスチナと呼ばれていました。)

「ここはイスラエルでなく、アメリカだ」という表現もあった(注: これは彼らが明らかに皮肉を込めて言った言葉。イスラエル建国以降、2019年現在もそうですが、一貫してイスラエルに一方的に肩入れし、巨額の軍事援助をしているアメリカのことを考えれば、言い得て妙なりの表現なのかもしれません)。

Amin はモスレム(注: 現在は日本語では英語の発音に近い「ムスリム」という表記が一般的だと思います)。「アラブの国も、パレスチナ人を助けない」というようなことも言った。

身分証明書を見せてくれた。ヘブライ語、アラビア語の併記。エジプト、ヨルダンには行けるみたい(注: 上に注記した通り、現在はエジプト、ヨルダンはおろか、このテルアビヴやハイファなどの1967年以前のイスラエル領だけでなく、「パレスチナ自治区」であるはずのヨルダン川西岸地区にすら、彼らは行くことができません)。

「ナセルは良かった」と言った(注: ナセルとは、もちろん、1956年から1970年まで在位したエジプトの元大統領のこと)。

Nassr School(ナセルの名と関係あるか、わからん)(注: ちなみにナセルのアルファベット表記は Nasser)は私立みたい。イギリス人、ドイツ人などの先生もいる。「ディール・ヤシン」(注: イスラエル建国前のパレスチナで、1948年4月にディール・ヤシン村の女性や子どもを含むパレスチナ人村民254人がユダヤ人のシオニストの民兵に虐殺された事件のこと)や「サブラ・シャティーラ」(1982年6月にイスラエル軍がレバノンに侵攻し、同年9月になってイスラエル軍が包囲するベイルートの同地のパレスチナ人難民キャンプに住むパレスチナ人のうち、女性や子どもを含む 3,000人以上が、イスラエル軍の夜間照明弾などの協力を得たイスラエルのレバノン内の同盟者であるキリスト教右派民兵によって虐殺された事件)のことも口に出た。

ガザに来たら、School に来いと言われた(注: 実際、後日、ガザに旅し、同地に滞在した際、Nassr Scool を訪問し、教師たちと懇談しました)。写真は送ることを約束。学校のこと、アラビア語のこと、子どものことなども話した(彼らの英語はオレより良くなかったが)。

バスで戻る(注: テルアビヴの滞在中の宿であった同地のユースホステル界隈に戻りました)。

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(注: 真ん中が当時の私です。同年 9月11日に、シリアのパルミラで 23歳の誕生日を迎えていました。1983年10月 7日、この写真の時は、日本で生まれてから、23年と26日目。笑)

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(注: 上の写真は、本日の投稿の表題のところに使ったものです。上述のパレスチナ人一家、勢揃いの写真です。彼らが住むガザ地区はその後、幾度となくイスラエルに攻撃され、繰り返しアメリカ合州国がイスラエルに提供した F-16 戦闘機によって重爆撃されています。この写真に映った彼らが誰一人としてその犠牲とならず、今も健在であることを心から祈ります。祈ると言っても私は無神論者なので、宇宙の何処かか、あるいは其処彼処に存在するかもしれない何か「偉大な力」に祈るしかありませんが。)

なお、同日の日記は、ユースホステル界隈に戻った後のことも記述していますが、今日の投稿は表題の通りなので、ここでは省きます。

最後に、同日、ユースホステルで寝る前に日記帳に書いた、上記の経験に関わる私のメモを以下に転載して、今日の note への投稿は終わりとしたいと思います。

パレスチナ人、ガザからこちらに出て来られる(注: 上記の通り、現在は不可能です)。West Bank の人たちはどうなのだろう(注: West Bank とはヨルダン川西岸地区のことです)。ユダヤ人入植も盛んなようだし(注: もちろん占領地への入植は国際法違反で、そもそも占領地自体が国連安保理決議に違反している占領地ですが、イスラエルによる占領地へのユダヤ人・イスラエル人の入植地建設も、当然ながら数々の国連安保理決議、国連総会決議などに違反しています)、やはりイスラエルは、1967年以降の占領地をも「占領地」としてあつかってないだろうか(注: 実際、イスラエルは現在まで実質的にヨルダン川西岸地区をも占領し続けており、それは例えば1967年11月に採択された国連安保理決議242号に違反し続けている違法占領です)。つまり、「イスラエル国内」としてしまっている。ブリッジのところには "WELCOME TO ISRAEL" とあるし(当時パレスチナのヨルダン川西岸地区にヨルダンから陸路で入った私たち外国人旅行者が見せつけられたイスラエルのプロパガンダの為の大看板のこと)、イスラエルのユダヤ人は West Bank にばんばん車で乗り込んで来てるし。何しろ、入植までしてるのだ。

以上、1983年10月 7日の私の日記から、表題に関わる部分の転載でした。パレスチ問題については、今後も繰り返し、投稿していきたいと思います。

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