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ギリシャ, アテネ part β' 〜 1983年7月15-16日(写真14枚)

ギリシャ, アテネ part α' と 1983年4月26日に日本を発ってギリシャに着くまで

ギリシャ, アテネ part α' は以下 note *1 で(1983年7月10日にイタリア・ブリンディジをフェリーで発って翌7月11日にギリシャ・パトラに着き同日のうちに列車でアテネへ向かい .. そしてシンタグマ広場, アクロポリスパルテノン神殿, リカヴィトスの丘など訪問・見物), そしてその前, 1983年4月26日の日本「出国」からイタリア・ブリンディジまでは note *2, 特に日本を発つ前辺りから日本を出てブリンディジに辿り着く前までの振り返りについては note *2 の第3章以降。

*1 ギリシャ, アテネ part α'1983年7月11-14日 〜 シンタグマ広場, アクロポリスとパルテノン神殿, リカヴィトスの丘(写真16枚), ほか

*2 イタリアからギリシャに渡った, 1983年7月10日 〜 この機会に 同年4月26日の日本「出国」以降を振り返り

*3 イタリアからギリシャへと地中海を渡るフェリーで聴いていた 〜 ダイアー・ストレイツとピンク・フロイド

*4 おまけ 〜 今の「凋落」日本が「飛ぶ鳥落とす勢い」日本に見えた時代の, 世界における日本の立ち位置を, 当時のロックのアルバム, ダイアー・ストレイツ "Love Over Gold" (1982), ピンク・フロイド "The Final Cut" (1983) で振り返る

ヨーロッパで平和運動が盛んだった 1980年代前半期, ギリシャも例外でなく

前回 note ギリシャ, アテネ part α' (本note 冒頭「前説」の *1 にリンク)にも書いたけれど, ギリシャ「入国」は 1983年7月11日。前日7月10日にイタリアのブリンディジで乗った夜行フェリーで 7月11日昼過ぎにギリシャ側 パトラ に着いて, その足で(って実際は列車だけど!)アテネ に向かった。アテネ 到着は同日夜。アテネ にはだいぶ長く居た。細かいことを書いておくと, 最初は 16泊17日, そして途中, 7月28日から8月1日まで地中海の島 サントリーニ に 4泊5日滞在し(行き来は夜行, 当たり前だけどそれぞれ 1泊2日のフェリーの旅, アテネをいったん出たのは 7月27日), アテネ に戻ったのは 8月2日。その後, アテネにさらに 7泊8日滞在してから, 8月9日に アテネ を列車で発って, 中東の第一訪問国/滞在国トルコのイスタンブールへ(2泊3日の列車の旅, イスタンに着いたのは 8月11日)。

以下は 1983年7月15-16日 に関してで, 写真は次の次の章, 本章は旅日記からの抜粋

1) "Corera" と書いてあるけれど, これは思い切りスペルミスl と r の区別すらついてない(笑)。正しくは Cholera のはず。ギリシャに 1ヶ月滞在した後は, トルコ, シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, エジプト, 再びトルコ, そしてイラン, パキスタンと旅を続け, 1983年11月の終わり頃から 1984年1月初旬辺りまで 1ヶ月半ほど, インドを旅していた。で, 少なくとも当時, インドを旅するにはコレラの予防接種を済ませておくことが推奨されていたと記憶している。たぶん抗体が出来る時期や有効期間, 予防接種をする国として適当なところなど勘案して, ギリシャの首都アテネでやることにしたんだと思う。この時は 1回目, 帰りにマラリアの予防薬とかももらったようだ, 38年も前のことでもう細かいこと忘れてたけれど。ただ朧げながら記憶してるのは, この Health Center of Greece の予防接種を受ける部屋の様子, それと注射針が使い回しに見えたこと。このお陰で帰国後数年してから心配事を抱えるようになってしまった時期があったのだが, 結局オレは大丈夫だった, 38年後の今もピンピン, しっかり生きている。運に恵まれたことに, 感謝!

なお, この頁の最下部にある "PIA" とは, Pakistan International Airlines の略で, 要するにパキスタン国際航空。パキスタンの人には申し訳ないけれど, 当時, 「貧乏旅行」バックパッカーの間において, この PIAPerhaps I Arrive の略だから気をつけよう, と笑い話のネタにされていて, ジョークでありながらしかしその理由はまぁ何というか深刻で, つまりあれに乗ったら「危ない」という悪評だった。話変わるがその PIA 職員 と言えばお国柄から殆どがイスラム教徒だと思うのだが, たまたまなのかな(!?)そのとき居合わせた PIA 職員は.. 。

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2) あの頃, つまり 1980年代前半期, ヨーロッパ(西ヨーロッパ)では平和運動が盛んだった。西ドイツやオーストリアなどでも見聞きしたけれど, ギリシャ・アテネにいる間も何回かその種のデモを見た。 

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3) 上のはこの頁の下方にあったメモだけど, 内容から先に載せた方がよさそうで, 掲載順を逆にした。この時のデモは反米軍基地, 反NATO のデモで, かなり大規模だった。

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後日, 8月8日に(アテネで)かなり大きな規模の反核デモに遭遇して写真を何枚か撮った。それはまた後日 note で。

上に載せた旅日記抜粋の真ん中よりやや下辺りにメモがある通りで, 7月16日は古代ギリシャのアテナイ(現代のギリシャのアテネ)のアゴラの見物に行った。上の写真は切れてるけれど, その日の夕飯時にはシンタグマ広場(宿が近い)方面に戻り, ムサカを食ってビールを飲んでる。ってことは「タベルナ」(ギリシャ料理を提供するレストラン, タヴェルナ [ταβέρνα]; 特に小規模のものを言うらしい)に行って「食べるな」の逆で(笑)食べたんだろうな, ムサカ。ムサカは典型的なギリシャ料理の一つ(トルコやエジプトなどでも食す)。

これは筆者が撮ったものではなく, ネットから拝借した写真。

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美味いよ!

「ギリシャ」なのか, 「ギリシア」なのか? 〜 因みに程度の話を

これは前回 note, アテネ part α' でも書いたこと。そこからそのまま転載!

仮に彼ら自身の言葉(ギリシャ語, ギリシア語)に基づくのなら, 「ギリシャ」もしくは「ギリシア」は Ελλάδα になるようで, 発音は Elláda かな, となれば強いてカタカナ化するなら「エラダ」。
だから「ギリシャ」も「ギリシア」も要するに日本語の世界, 内輪の話ではあるんですね。ググって少し調べてみたけれど, このカタカタ言葉(たち)の語源はさておき, 大雑把に括るなら, 国名だと「ギリシャ」という表記が一般的で, 古典や神話, 文化, あるいは哲学とか言語とか学問系の話題になると「ギリシア」と表記する例が比較的多いようで, 半ば慣行化している側面もあるもよう(いちおう理由, 背景あってのことだけど)。
ただこの note の中では, とりあえず全部, 「ギリシャ」で統一しておきます。

古代ギリシャ・アテナイのアゴラ(広場、市場), そして「現代」1983年当時のギリシャ・アテネの市場 〜 写真14枚

ソクラテス(アテナイ[アテネの当時の名前]出身の古代ギリシャ哲学者: 紀元前470年頃 – 紀元前399年)がここでアテナイの人達との問答を行なったという, アテナイのアゴラ。「アゴラ」とは古代ギリシャのポリス(都市国家)における公共の広場を指し, そこに人が集まって商取引も為されるようになった結果, 市場としての役割も果たしたというところ。

因みに「アゴラ」(古代ギリシャ語: Ἀγορά, Agorá)は, 後のローマ時代のラテン語においては "Forum", カタカナ書きするなら「フォルム」になるということで(公開討論会などを意味する英語の Forum の語源, 英語のカタカナ書きは「フォーラム」), そしてラテン語の "Forum Romanum", カタカナ書き「フォルム・ロマヌム」のイタリア語読みが "Foro Romano", つまり「フォロ・ロマーノ」。

ギリシャに行く前のイタリア, ローマで観た「フォロ・ロマーノ」(古代ローマの遺跡群), コロッセオ, などはこちら(写真 8枚, note タイトル上の写真はコロッセオ).. ヴァチカン市国(写真3枚)はイタリアのローマ市内にあるのでついで!

話が逸れた!

古代ギリシャ の アゴラ は「民会」が開催される場所でもあったということで, これは古代ギリシャの都市国家ポリスで行なわれていた市民総会のことになるわけだけれど, アテナイは既に紀元前5世紀には直接民主制を確立させていたわけなので, アテナイの民会が開催されたアゴラは真に「民主主義」の故郷みたいなところと言えるのかもしれない。

ただ, アゴラ そのものの歴史はさらに古く, 紀元前8世紀末, 古代ギリシャの吟遊詩人ホメーロス(と言っても叙事詩「オデュッセイア」Odyssea [英語の Odyssey] の作者とされるホメーロスは一方で作者であるということだけでなく実在したのかも断定できないらしいけれど!)の時代辺りまでにはポリスにある公共の広場として確立した存在になっていたとのこと(かな〜りウィキペディア参考, だから引きみたいなもの, まぁ現代人は古代ギリシャの時代に生きた彼らの「曽々々 ... [々, 何回繰り返せばいいんだ?] ... 」の世代に当たるわけで!)。

最も有名なアゴラはもちろんアテナイのアゴラで, これは要するに実にいろいろな用途の公共施設を設置していた広場であり, 上述の通り市場としても機能し, アテナイ市民の交流の場ともなっていた場所。

何しろ, 様々な施設があったようで。

さてさて, 

例によってスマホのない時代, ジュラ紀(笑)ぐらい昔の「貧乏旅行」バックパッカーとして写真はあんまり沢山撮ってないけれど, 以下は 1983年7月16日アテネ で撮った写真。古代ギリシャアテナイ広場でも市場でもあった「アゴラ」や, 現代, と言っても1983年当時のギリシャアテネ市場 などで撮った写真。

写真 1) これは アッタロスの柱廊。アテナイのアゴラ内にあった柱廊。もともと紀元前2世紀の建造だったようだけれど, 紀元3世紀(時は既にローマ帝国時代)に侵入した外部勢力によって破壊されている。残った部分はアテナイの城壁の一部として使用されていたということだけど, 現在あるこの「アッタロスの柱廊」は 1950年代に再建築されたもの。したがって古くはないのだが, 古代ギリシャの建築物を当時の様式そのままに忠実に現代において復元させたもので, 考古学上, 非常に重要な建築ということになるようだ(建物自体は 古代アゴラ博物館 の収蔵品展示の場所として使われている)。

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写真 2) 写真の左側に一部見えるのは 古代アゴラ博物館 の収蔵品。

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写真 3) 

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写真 4) アテナイの アゴラ, ここで古代ギリシャの人々は, ソクラテスは ... なんて考えるのは現代人, 現代の人々の「自由」。

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写真 5) 

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写真 6) 

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写真 7) 

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写真 8) 

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写真 9) 上の 8枚は古代ギリシャのアテナイの広場であり市場であったアゴラだけど, 残る 6枚は突如 趣 が変わって, しかしこちらも「市場」, 現代(1983年当時)のアテネの市場

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写真 10) 

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写真 11) 

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写真 12) ここは市場 ... の付近か(笑)。

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写真 13) 市場の入り口辺りかな。どうしてこの写真を撮ったんだろう。あのおばさんがあんまり大きかったからかな。

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写真 14) アテネの夏はとにかく暑いのだ, 上半身裸は容赦してくれ。と言っても彼は筆者ではない, 筆者は少なくとも当時もっと締まっていて(笑), この写真を撮ったのが筆者!

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さてさて, 1983年のアテネで撮った, ギリシャの食べ物の市場の写真を見たところで, この後はギリシャ料理のレストラン「タベルナ」に因んで, ほぼ同時代, あの時代の日本のパンクの曲「メシ喰うな!」を聴いてみよう(笑)♫

ギリシャ料理のレストランはギリシャ語で「タベルナ」 〜 あれ, 聴いてみよう, 町田町蔵(町田康)の「食べるな」, じゃなくて, 「メシ喰うな!」

ギリシャのレストランは「タベルナ」(タヴェルナ, ταβέρνα; ギリシャ語で, 通常ギリシャ料理を提供するレストランの意, 特に小規模のものを言うらしい)。

「タベルナ」→「食べるな」→「メシ喰うな!」♫ .. この歌のことは去年の911 の時の note *A, でも載せたんだけど。

昔々, 日本に「メシ喰うな!」というタイトルの歌があった。同名タイトルのアルバム・リリースが 1981年3月1日, ただし前年1980年にオムニバス・アルバムの中でこの曲の原型みたいなものがリリースされてるはず, 拙者, 大学2年の時。

この歌がそれ, 町田町蔵(後に町田康を名乗って小説家にもなる男, 彼も来年1月にはついに, ついにっていつかは迎えるんだけど, 還暦になる!.. 去年911に還暦を迎えた拙者とほぼ同世代ではないか, だからどうしただけど)率いる, パンク・バンド INU が 40年ほど前にリリースした歌 ♫

メシ喰うな!

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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*A シリア、パルミラの古代都市の遺跡で 23歳の誕生日を迎えた、37年前の 911 ... ってことはナニ? 今日、還暦かよ。 〜 note on 911, 2020年

*B その前年, 2019年911 の日の note, これが筆者の note 第1回 〜 911 アメリカ同時多発テロを振り返る (2001年当時の日記から)

さてさて, 次も歌ですぞ。

ソクラテスも問答を交わしたアテナイのアゴラ 〜 ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか ♫ (野坂昭如)

ソクラテス(アテナイ[アテネの当時の名前]出身の古代ギリシャ哲学者: 紀元前470年頃 – 紀元前399年)がそこでアテナイの人達との問答を行なったという, アテナイの「アゴラ」を写真と共に取り上げたんだから(前々章), となればこれを載せなければ, 歌わなければ! ... ソクラテスの弟子がプラトン, で, プラトンの弟子のアリストテレスはこの歌には出てきません。

「ソ・ソ・ソクラテス」 by 野坂昭如 ♫

もういっちょ ♫ ... 同じだけど, でもちょっと長いヴァージョン(笑)

野坂昭如(1930年10月10日生まれ, 2015年12月9日他界)と言えば, いろいろ思い出すことのうちの一つ, 一つに過ぎないけれど。

いろいろ事情あっての瞬発マジ切れ 大の大人の喧嘩 だったようだけど, 少なくともこの場では, 全く青褪めることなく笑顔で「仲裁」に入る大島渚(1932年3月31日生まれ, 2013年1月15日他界)の妻, 小山明子が一番の大人物かもしれない。このお三方の中では, 大島より3歳若い, 野坂より5年若い(日本的「学」年齢で言うと 4学年違い)小山は 2021年の今も健在。どうぞお元気で, 長生きしてください!

大島渚と言えば, 1983年6月4日にパリの映画館で観た封切り早々の「戦場のメリークリスマス」を思い出すけれど, 

実は(実は!ってほどのことでもないか, 笑), そのむかしソクラテスがアテナイの人達との問答を行なったという古代ギリシャのアテナイの「アゴラ」を「現代」ギリシャのアテネで見物した日から 6日後, 1983年7月22日, そのアテネ市内の映画館で, やはり大島渚監督の「愛のコリーダ」を観ている。1976年公開の日本・フランス合作映画(藤竜也, 松田暎子主演)だから, パリで封切り早々に観た「戦メリ」とは違い, これはリヴァイヴァル上映的なものだったけれど。

しかし当然ながら(!), 日本とは違って, 完全ノーカット版。

愛のコリーダ」, フランス語のタイトルは "L'Empire des sens", 英語では "In the Realm of the Senses" だった。ギリシャで観たんだから, 字幕はギリシャ語だったのかな。そこんとこ, 思い出せない。まぁ役者は日本語で喋ってるんだし, それに共演の二人, 劇中の二人がしていることと言えば, 万国共通のあれだからね!

このちょっと古くさいポスター写真みたいなものは, 当時アテネの映画館で撮ったものではなくて, いまネット上からとったもの!

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さてさて, 話がなんと「愛のコリーダ」に飛んでしまったのだった。

飛びます, 飛びます by 坂上二郎(1934年4月16日生まれ, 2011年3月10日他界)

飛びました, 飛びました ♫

さてさて, 音楽が止まらない。

ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか 〜 みんな悩んで 〜 Think Too Much (b) ♫ (Paul Simon)

ソクラテスがそこでアテナイの人達との問答を行なったという, アテナイの「アゴラ」を写真と共に取り上げて(前々々章), そして前章ではその流れで野坂昭如の「ソ・ソ・ソクラテス」, "ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか" ♫ を取り上げて,

つまり ♫

ソクラテスもプラトンも, ニーチェもサルトルも, ちょっと考え過ぎだったかな。いや, 時に考え過ぎるほど考えるって大事なことだなぁ。

「考え過ぎ」で思い出す, Think Too Much (b) 〜 from Paul Simon's sixth solo studio album "Hearts and Bones", released on November 4, 1983 ... 日本に帰国後, (韓国・釜山からのフェリーで帰国, 下関で日本「入国」を果たした後に)立ち寄った当時・初訪問の広島で買った, 懐かしのアルバムに収録されていた曲 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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音楽が止まらない。ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか, ニン、ニン、ニーチェかサルトルか, みんな悩んで大きくなった ♫ by 野坂昭如

♫ .. で, この直ぐ下に ニーチェ を載せてしまうという(笑)。

ニーチェ

フリードリヒ・ニーチェ(1844年10月15日生まれ, 1900年8月25日他界)〜 「音楽がなければ、人生はただの間違いだろう」

といったようなことは, ニーチェ が言わずとも, 山本剛でも言いたい科白(笑)

ニーチェ が出てしまったところで, ニーチェ にも 古代ギリシャ にも絡むあれを 本 note の最後に ♫

古代ギリシャの長編叙事詩「オデュッセイア」"Odyssey" に絡めて 〜 MUSIC from Stanley Kubrick's film "2001: A Space Odyssey"

本 note 第4章 古代ギリシャ・アテナイのアゴラ(広場、市場), そして「現代」1983年当時のギリシャ・アテネの市場 〜 写真14枚 から転載。

ただ, アゴラ そのものの歴史はさらに古く, 紀元前8世紀末, 古代ギリシャの吟遊詩人ホメーロス(と言っても叙事詩「オデュッセイア」Odyssea [英語の Odyssey] の作者とされるホメーロスは一方で作者であるということだけでなく実在したのかも断定できないらしいけれど!)の時代辺りまでにはポリスにある公共の広場として確立した存在になっていたとのこと(かな〜りウィキペディア参考, だから引きみたいなもの, まぁ現代人は古代ギリシャの時代に生きた彼らの「曽々々 ... [々, 何回繰り返せばいいんだ?] ... 」の世代に当たるわけで!)。

というわけで, 思い出すのは, スタンリー・キューブリック(1928年7月26日生まれ, 1999年3月7日他界)監督作品, 1968年公開の映画,

"2001: A Space Odyssey",

邦題は「2001年宇宙の」だったけれど, "Odyssey" は古代ギリシャの時代のホメーロスの(作とされる)長編叙事詩のタイトル(「オデュッセイア」, Odyssea)であると共に, 「長期に及ぶ苦難の旅」「多難な長旅」「(知的な)探求」などを意味する言葉。日本語の「旅」だけだと原題の意図が伝わりにくいけれど, まぁ映画そのものが非常にインパクトある映画だったからね!

今日のこの note では, ソクラテスが古代ギリシャのアテナイの人達との問答を行なったというアテナイの「アゴラ」を写真と共に取り上げたけれど, この映画のテーマ曲として使われたのは, 野坂昭如の「ソ・ソ・ソクラテス」, "ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか, ニン、ニン、ニーチェかサルトルか, みんな悩んで大きくなった" にも登場する ニーチェ, つまりフリードリヒ・ニーチェ(1844年10月15日生まれ, 1900年8月25日他界)の「ツァラトゥストラはかく語りき」にインスパイアされた, リヒャルト・シュトラウス(1864年6月11日生まれ, 1949年9月8日他界)の同名の交響詩。

The opening of "2001: A Space Odyssey" ♫

映画は, 

キリがないけれど, でも関連 note あと 2つ!!

2001年宇宙の旅 と ピンク・フロイド 「エコーズ」 の シンクロニシティ 〜 歌詞和訳つき

世界一, note 界一長いタイトルに挑戦(笑) ... 「ブレードランナー」から「2001年宇宙の旅」/ "Echoes" へと巡る旅 〜 〜 経由地は「いまを生きる」「6才のボクが、大人になるまで。」「生きる」「ゴンドラの唄」, "To the Virgins, to Make Much of Time", 途中下車して「ウィンザーの陽気な女房たち」, "Welcome to the Pleasuredome" "Relax", 「アポロの歌」, "If" & "If", 「ツァラトゥストラはこう語った」


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