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ヴェネツィア, イタリア 〜 1983年7月1日(写真7枚)

1983年4月26日横浜港発のユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行, 6月30日にオーストリア・ウィーンを発ってイタリアへ

1983年4月26日に横浜港からのフェリーで日本を発ち, ソ連・北欧・西欧プラス当時はアメリカ合州国/イギリス/フランスの占領下だった西ベルリン, 東ドイツの東ベルリン, 当時のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国など諸国を行脚(実際には諸国間の移動はフェリーか列車, 歩いての移動は西ベルリンから東ドイツの東ベルリンに入った時だけかな, ここまでは; 後の中東やアジアでは歩いて国境越えもしたけれど .. カッコつけ過ぎ, じゃなくてカッコ長過ぎ!), そしてオーストリア・ウィーンを夜行列車で 6月30日に発ち, 7月1日よりイタリアへ。

以下リンク先は 2度目の滞在のオーストリア・ウィーン note, その前までの「行脚」に関してはその第1章 1983年4月26日横浜港発のユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行, ここまでの振り返り にて。

なんと行かないつもりでいたのだった, ヴェネツィア

イタリアでは, 当時の旅日記によれば, ヴェネツィアに 7月1-2日の1泊2日, フィレンツェに 7月2-4日の2泊3日, ローマに 7月4-8日の4泊5日(7月6日にはヴァチカン市国も見物), ナポリに 7月8-9日の1泊2日(7月8日にはポンペイの遺跡も見物)している。その後はナポリを 7月9日の夜行列車で発ってブリンディジに向かい, 翌7月10日朝ブリンディジ着, 街をぶらついたりして過ごした後, その日の夜の船便でブリンディジの港を発ち, ギリシャに向かっていて(7月11日にギリシャのパトラに着いて, そこから列車でアテネへ), そういうわけで, イタリアには夜行列車の1泊を入れて 9泊10日滞在したことになる。

後に旅日記を見て一点なぜ?と思ったことがあって, それはどうやら最初はヴェネツィアに行かないつもりだったらしいということ。「最初は」というか, 旅程の細部に関しては旅しながら決めていたので, 途中で, それもイタリア行きを間近に控えるようになってから, そんなふうに考え始めたのではと思うのだが。

おそらくは, もともと旅の目的地としては中東やアジアをメイン・ターゲットにしていたことと, ソ連(何しろ1983年なのでロシアではなくてソ連!)の後のフィンランド・ヘルシンキから始めた2ヶ月間有効のユーレイルパスによる移動もその期限が近づきつつあって, 有効期限内にギリシャまで辿り着くことを優先する限りは行き先の取捨選択に迫られる, といったようなことが心理的に影響していたのかもしれない。

当時の旅日記には以下のような, いつもの如くの殴り書きメモがあって(記載の通りで 2日後の 7月3日に書いたようだけれど), 

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前日 6月30日にオーストリア・ウィーンを夜行列車で発っていたのだが, イタリアを目指していたつもりだったのに, Lienz というのは.. それってオーストリア!

列車を乗り間違えていたというわけで, そこで気づいて乗り換えてその時点までの目的地を変えずにイタリアのフィレンツェに行くことにしていたら, かなり時間がかかってしまう, そんなわけで, 一旦は行かないことにしていたヴェネツィアに, 急遽行くことにした, ということのようで。

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何はともあれ, イタリアにやって来たのだった!

ヴェネツィア 〜 1983年7月1日(写真7枚)

いわゆる「貧乏旅行」の旅人, あの頃は「バックパッカー」というカタカナよりも「貧乏旅行者」とか「貧乏旅行」の旅人とか, そんな自称・他称が多かったと思うけれど, とにかく金ほどではないにしろフィルムも節約せざるを得なかった長旅バックパッカー, なんたって当時は現代のようにスマホで写真をどかどか撮るような時代じゃなかったから, 

そのとき筆者のカメラはコニカで, 残念ながら同じく日本メーカーの「ナイコン」♫ つまりニコンではなかったけれど, フィルムはコダックだった, 

話が飛んだ ♫

兎にも角にも, フィルムにも限りはあるのだ, 買い足しはできても金がかかるのだ, 1日で何枚も何枚も撮ってしまうわけにはいくまい, というわけで, 前振り言い訳はここまで, 

ヴェネツィアで撮った写真は 7枚だった。しかしこのたった7枚の写真を見た(且つそれで朧げな記憶を呼び戻した)だけでも, 列車の乗り間違えが原因で急遽行くことにしたヴェネツィアだったけれど, やっぱ行っておいて良かったなとは思う。

1)

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2) 女性が一人, 猫が三匹。合計すると .. 単なるダブル・ミーニングで算数するのはやめましょう(笑)。いずれにしても何処の国にも綺麗な女性はいて, 何処の国にも可愛い猫ちゃんたちはいる。

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4) これって, 何かの上にカメラを置いてセルフタイマーで撮ったのか, あるいは居合わせた人に頼んで撮ってもらったのか, 旅日記にはそんなことは書いてなくて、もはや思い出せない(後の中東・アジアを含め, たまに他の旅人などと一緒に移動することはあったけれど, 他の殆どのヨーロッパ諸国での旅と同様, イタリアでの筆者は完全に一人旅の旅人だった)。

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写真はあと 2枚。当日の旅日記にはこんな殴り書きがあるから, 

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6) これはその塔の上から撮ったのかな。

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7)

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イタリアだけが目的地だったら, いやユーラシア大陸「ほぼ」一周ではなくて「ヨーロッパ」ぐらいが旅の目的地ということだったなら, もっと長居しても良かったよな, ヴェネツィア!

カーニヴァルの時期になると, ヴェネツィアは

と言っても, その Carnevale di Venezia, この眼で直に見たことはないんだけど。

以下リンク先 note の第3章 ヴェネツィアのカーニヴァルを眺めながら 〜 「マスカレード」(レオン・ラッセル, カーペンターズ, ジョージ・ベンソン) に書いた通りで,

イタリア語では Carnevale di Venezia という(筆者、イタリア語ど素人だが)。 イタリアのヴェネツィアで毎年開催される祭りで、時期的にはおおよそ2月末から3月初めまでの2週間行なわれるもの。昨年はコロナ禍で途中から中止となって世界的なニュースになっていた。で、今年はというと、残念ながらやはりコロナのせいで、最初から中止になってしまったらしい。ただ、ヴァーチャル・イヴェントが短期間ながらデジタル配信された模様。

その章ではネットから取り寄せた ヴェネツィアのカーニヴァル でのマスカレード(仮面舞踏・仮装パーティ)の写真を何枚か載せたり, レオン・ラッセルの名曲「マスカレード」の, ヴェネツィアのカーニヴァル の模様を背景にしたヴィデオ・クリップを掲載したりしたけれど, そのヴィデオの方を以下リンクの下でまた載せることにする,  ヴェネツィアのカーニヴァル の雰囲気が, そのヴィデオに使われている数々の写真で伝わるので。

仮面 〜 マルディグラ(ニューオーリンズ), カーニヴァル(ヴェネツィア), Eyes Wide Shut 〜 2001年宇宙の旅/エコーズ

This Masquerade 〜 from Leon Russell's 1972 album "Carney" ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

ヴェネツィア 〜 加藤和彦(1984年11月1日リリース)

そうか, 加藤和彦の9枚目のソロ・アルバム「ヴェネツィア」(VENÉZIA)って, 俺がヴェネツィアに行った年の翌年リリースのアルバムだったのか(言うまでもなく偶然だけど!)。

このアルバムはヴェネツィアをテーマにしたコンセプト・アルバム。加藤和彦は安井かずみとともにヴェネツィアに滞在し, 彼女は其処で収録曲の歌詞を書いた。

アルバム(10曲収録)からのシングル・リリース曲に「ハリーズBAR」という歌があるけれど, タイトルや歌詞の舞台に使ったのは, ヴェネツィアに実際にある, 同じ名のバーだということらしい。このアルバムがもう少し前, 1982年以前とかに世に出ていたら, 1983年7月1日にたった一晩泊まったヴェネツィアで, そのバーに行ってみたかもしれないな。

ハリーズBAR加藤和彦

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

♫ ♫ ♫

作詞:安井かずみ(1939年1月12日生まれ, 1994年3月17日他界)
作曲・編曲:加藤和彦(1947年3月21日生まれ, 2009年10月16日他界)

♫ ♫ ♫

「ベニスに死す」(ルキノ・ヴィスコンティ監督作品, 1971年)

前章で人生の最期が少なくとも第三者からしたらものすごく悲しいものだった加藤和彦が遺した歌を載せた後で, この映画, というのは「悲哀」続きで気が引けるけれど。しかし当然ながら, 背景はじめ何もかも, 両者の間には全く関係らしい関係はない。

単にヴェネツィア(ここでは「ヴェニス」「ベニス」)で思いつくものを取り上げたら, こういう順番になってしまった。 

勿論この「ベニス」は, 「ヴェニス」とも表記される, ヴェネツィア(Venezia)の英語表記 Venice のカタカナ表記。だから発音的には「ヴェニス」の方が近いんだろうけど, 日本では慣習的に映画の原作の方, つまりドイツの小説家トーマス・マンによる小説のタイトルの方は「ヴェニスに死す」となっていながら, 映画化されたこちらのタイトルは「ベニスに死す」。

今も映画は好きだけど, 子供の頃, 小学校4年から6年ぐらいにかけてかな, 3歳年上の兄貴が映画にかなり凝った時があって, よく雑誌「スクリーン」など買ったり, テレビで放映される映画を観たりしていたので, 自分も同じように「スクリーン」を捲ったり読んだり映画を観たりして, けっこう影響を受けた。

イタリアの映画監督ルキノ・ヴィスコンティ(1906年11月2日生まれ, 1976年3月17日他界)によるイタリア・フランス合作映画「ベニスに死す」は, ウィキペディアによるとイタリアでの公開が 1971年3月, フランスでの公開は 1971年5月で(カンヌ国際映画祭, 第24回カンヌ国際映画祭25周年記念賞受賞), 日本の映画館での公開は 1971年10月。日本では 1972年に第45回キネマ旬報ベスト・テン第1位, 同年やはりキネマ旬報賞の外国映画監督賞というのを受賞していて, 1971-72年度というと自分は小5-6の時だし, 当然この映画は日本の, 洋画を含む映画好きの間で相当に話題になった作品で, 懐かしく思い出せるタイトル。

と言っても, これまでそれほどじっくり観たことはなかったかもしれないのだけれど, しかしまぁ粗筋はおおよそ知っている。舞台はもちろん, ベニスつまりヴェニス, 要するにヴェネツィア。

映画では, グスタフ・マーラー作曲の交響曲第5番第4楽章「アダージェット」(第5とか第4とか筆者は暗記などしてないのでこれはウィキペディア参考)がテーマ曲として使われた。マーラーは同じくウィキペディアによれば, 1860年7月7日に当時のオーストリア帝国, ボヘミア王国に生まれ, 1911年5月18日に(この時は)オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで亡くなっている, 主としてオーストリア・ウィーンで活躍した作曲家であり指揮者。

そうか, そうだった, マーラーもウィーンが人生の主たる舞台だった人。

というわけで, 「交響曲と歌曲の大家」マーラーじゃなくて, ただの(欧州から見たら)「極東」の島国出身の「貧乏旅行」バックパッカーが, 1983年7月1日にイタリアのヴェネツィアに来る前日まで居たところは, オーストリアのウィーンだった。

またまた脱線 ♫

ではでは, 筆者はもちろん ヴェネツィアで死んだり してないから, それもあって 今生きてる んだけど .. ん? 「いまを生きる」

しまった, また脱線した(これを文化人類学や行動科学の分野では「ワザトラシイ脱線」と呼びます), これは全く別の映画 "Dead Poets Society", 原題に "Dead" がありながら邦題は此れ如何に, 「いまを生きる」。

もとい, 

「ヴェネツィアで死す」でも「ヴェニスに死す」でもなく, 邦題は「ベニスに死す」だった, "Death in Venice" ("Morte a Venezia")

映画の主人公を演じたのはイギリス人俳優ダーク・ボガード, 美少年役はスウェーデンのビョルン・アンドレセンだった。

マーラーの「アダージェット」をバックに。

では本章の最後に,

もう一度,

グスタフ・マーラー交響曲第5番第4楽章「アダージェット」♫

さてさて,

ちょっと哀愁っぽくなってきたけれど, 

本 note の最後は, 

やっぱ明るくいこう,

というわけで, 次章・最終章へ ♫

最後は明るく 〜 Tintarella di luna (Mina/Hetty & the Jazzato Band)

今日, 2021年7月1日は, (あちらから見たら)ユーラシア大陸のその先にある「極東」の島国出身の「貧乏旅行」バックパッカーの, ちょうど 38年前のイタリア入り記念日。自分で勝手に祝って, イタリアのもっと古いポピュラー・ソング, Tintarella di luna

イタリア人歌手 Mina(またの名を Mina Mazzini

による, 1960年リリース(あ, 俺がお袋のお腹からリリースされた年と同じ年のリリースだ, 笑)のアルバムの, そのタイトル・トラック ♫

それをカヴァーしてるのは, イギリス人とイタリア人のバンド, Hetty & the Jazzato Band ♫

では皆さん, 以下はまずは皆さん, あ, 違った, Mina さん, つまり Mina Mazzini さんのスタジオ・ヴァージョンとライヴ・ヴァージョン(あれ, あのクリップって 1959 になってる, それってアルバムのリリース前ってことだろうか, まいいや細かいことは, しかしまたカッコが長い!), そしてその後に Hetty & the Jazzato Band によるカヴァー・ヴァージョンを載せて, それでもって, 今日の note はおしまい ♫

Tintarella Di LunaMina (Mina Mazzini)

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していたイタリア語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

Tintarella di luna 〜 Hetty & the Jazzato Band

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していたイタリア語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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