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宗教と表現の自由に関するメモ 〜 フランス文化・宗教学者によるフランス「斬首事件」論考の読後感想と私見

はじめに

宗教は自分にとって切実なものではない。自称「闘争的かつ積極的な無神論者」(リチャード・ドーキンス Richard Dawkins "Militant Atheism" 援用)ながら、もともと生来「神」なるものを本当の意味で信じたことなどなく(「本当の意味で」というのは、つまり、子どもの頃ってよく分からないままに神社仏閣をお参りしたりしてるよね、今も筆者は神社や寺の雰囲気自体はわりと好きだが)、いかなる特定宗教の信者にもなったことがない、そんな日本人の多くにありがちな対「宗教」姿勢を維持してきた筆者としては、宗教というものが自分の人生、生き死にの問題において切実なものになることなど、これまで一度としてなかった。だが、知的関心を向ける対象という意味においては、極めて興味深いテーマではある。

そんな宗教について、SNS 上となると自身の Facebook への投稿においては頻繁に自分の考えを表明し、時に詳細な論考を書いているのだが、筆者は Facebook についてはその英語力からしたら大胆な試みを続けているとも言えるのかもしれないが(英語は確かに拙いものの「大胆な試み」をしているとか、そんなふうに考えたことはないけれども、笑)、殆どの投稿に関して、その拙い英語で書いている。

自分にとってもう一つの大きな関心事項である「パレスチナ問題」に関する投稿も Facebook 上では英語で書いていて、これについてはこの note 上においても時折りそこそこ自身の考えを比較的詳細に表明してきたのだが、「宗教」については note 上ではまだあまり詳しく自分の主張を書いたことがない。Facebook 上の投稿においてまとめたものがあるので、頭の中ではおおよそ私見の大筋は整理できているのだが、それを日本語の文章として表したことはこれまでのところない。「宗教」について掘り下げて考えるようになったのは近年のことなので、10年ほど前まで頻繁に更新していた自分のホームページにおいても、たまに「宗教」関連のことを書くことがあっても、自分の「宗教」論といっていいようなレベルのことをアップするようなことはなかった。そのホームページはもう更新しておらず、そこにあらためて「宗教」論を掲載するようなことは今後もないのだが、ここ note においては、いずれはある程度詳細な「宗教」に関する持論を投稿してみたいと思っている。

しかし、とりあえず、今日は本投稿のタイトルに掲げた通り、メモや感想レベル。

フランス文化・宗教学者によるフランス「斬首事件」論考の読後感想と私見

この「フランス文化・宗教学者」とは日本人学者、現在東京大学准教授の伊達聖伸氏なのだが、本投稿のタイトルや本章見出しにおいてその名を記さなかったことの理由はシンプル(とか言いつつ、ハッシュタグは付けるつもり)。

筆者は、その学者や彼が行なってきた宗教やフランス(主としてライシテ、平たく言えば非宗教性、脱宗教性、世俗主義、政教分離といった日本語がその意味に近いのだろうが、フランス固有の側面が強いので日本語に訳しづらいものと思われる)に関する議論について、これまで全く詳しくなかった。名前は聞いたことがあっても、たまたま縁がなかったので、つまり、自分の知的アンテナ(まともなアンテナであれば良いのだが、笑)がその重要性を正しく感知してこなかったので、その議論を読む機会がなく、伊達氏がどんなことをテーマとし、どんな議論をしているのかを知ったのは、ごくごく最近になってからのことだった。

その上で言うと、この 2, 3週間の間に伊達氏による複数の署名記事や SNS 上に投稿された彼の意見・主張などを見て、同氏が非常に「面白そう」「興味深い」、つまりは知的好奇心を掻き立てるような内容のテーマを扱い、議論をしていることが分かったので、今後、著書など手に入れて伊達氏の論に関して本格的に理解を深めたいと思っているところ。

そういうわけで、フランス文化や宗教学における伊達氏の存在やその議論についてつい最近まで「ほぼ」知らなかったといっていい自分が(そもそも「宗教」についてはそこそこ独学してきたつもりの筆者だが「フランス文化」については完全にど素人、これまでバカロレア等に興味を持ったことがある程度)、最近ちょっと知ったからと言って突然、たとえば本 note 投稿のタイトルで伊達聖伸氏の名前、その固有名詞を記すというようなことは、些か気が引ける、というものだったのだ。

とか言いつつ、ハッシュタグは付けるつもり。

シンプルなことを書くのに、どんだけ文字数使ってるんだ?! .. うーむ(自問自答ならぬ自問自唸)。

1. なぜフランスで「残酷な斬首テロ事件」が起きたのか、その「複雑すぎる背景」(副題:はたしてムスリムとの対立が原因なのか, 伊達聖伸) 〜 読後感想一口メモ

以下、筆者という名の拙者(つまりオレ)の読後感想一口メモ

マクロンは別に好きな政治家ではないが、この件における彼の基本的な考え方(テロや暴力行為は決して許されないが、一方で「表現の自由」は宗教の信者にとっての冒涜をも含むもの。それでもその「表現の自由」の権利は擁護されなければならない)については支持する。伊達氏が言うように、その考え方は「それはそれで尊い」。他方、(非常に)残念ながら、世界で、今やフランスにおいてさえ、それが「普遍的な」説得力を持ち得ていないという現実がある。

2. フランス「斬首事件」の深層とは? 日本人が知らない「厳しすぎる現実」(副題:ムスリムとの共生に必要なもの, 伊達聖伸) 〜 読後感想と私見

「ボタンの掛け違いや誤解やすれ違いが、さらなる悲劇を生み出すことのないような表現の自由の再開発は可能なのか。フランスはその実験場になっているが、そこに人命をかけるのはあまりに重いと思えてならない。」(上記リンク先の伊達氏署名論考より、その最後の一節)

以下、筆者という名の拙者(つまりオレ)の読後感想と私見(私見が中心)

「そこに人命をかけるのはあまりに重い」ということは勿論分かるが、人命がかかってしまう裏に「宗教」がある事実から逃れるわけにはいかない。

「宗教」は一部信者にとって人命より大事かもしれないが、非信者からすれば「思想」の一つに過ぎない。

全ての「思想」は批判、風刺、戯画、時には嘲笑の対象になり得る。どの「思想」の信奉者もそれを甘受せざるを得ないことは近代社会の原則であってほしい。個人的には、少なくない宗教の信者の間に見られるような、「宗教」だけは特別で、例外扱いで、scrutiny(精密な調査・精査、吟味。それは当然ながら critical scrutiny 批判的な吟味になることもあり得る)から逃れられるとするような考えには、到底賛同できない。

「宗教」や特定の「宗教」における「神」なるものや既に故人である「預言者」、また現代の「宗教」の「権威」者などを批判や風刺、戯画、時には嘲笑の対象とすることは、仮にそれで多くの信者「の心」が傷つくとしても、それは信者を含む一般の「人間」に対するヘイト・スピーチとは全く別物である。

人命を落とすことを「是が非でも」(困難な現実があるので括弧書き)避けることは最優先されるべきだが、

しかしそれでも、本来「人命をかける」ものではないにもかかわらず「人命をかける」事態となってしまうことを恐怖し、畏縮し、萎縮し、結果、自粛せざるを得なくさせるような圧力とは「何らかの方法で」(困難な現実があるので括弧書き)闘わなくてはならない。相手が「仮に」宗教であっても。

その「闘い」を、「人命をかける」ことを避けて行なうことはどのようにして可能になるのか。

肝は要するにそういうことだと思うが、相手が「宗教」だと堂々巡りになりそうなきらいはある。

一国の政治上の権力者や著名な知識人がこう言ってしまうと「炎上」するのだろうが、「宗教」が自らに対する批判や風刺、戯画等を拒絶するのは、そもそもその原理自体に起因することなので、これは非常に厄介ではある。

共生することと批判することと

前章で取り上げた伊達氏の論考の前篇のサブタイトルは「はたしてムスリムとの対立が原因なのか」、後篇のそれは「ムスリムとの共生に必要なもの」だった。

筆者(伊達氏でなくて拙者のこと、ちょっとややこしいな)は無神論者で、イスラームに限らず、「宗教」なるものを信仰・信奉する人が減った方がいいと思ってはいるものの、一方で個人の「思想信条の自由」全般だけでなく「信仰の自由」も当然ながら守られるべきと考えており、そもそもムスリムがムスリムであることをやめることなど彼らに強制できるものではないし、そもそも強制してはいけない。そして、その考えの帰結として、その国や社会が最も大事だと見做す原理原則を貫くために阻害要因になる存在だと「仮に」見做したとしても、そのことを理由として彼らを排除することには反対だ(もちろんテロリストは別)。存在を排除するのではなく、「仮に」阻害要因になり得る存在だとしても、議論してその要因を取り除く、もしくはできるだけその要因を(阻害効果を生む影響力を)小さくすることが、近代の民主的社会の大原則だと思う。

(世に「神政国家」なるものが存在するのに似て「世俗・政教分離原理主義国家」なるものが存在し得るなら、その社会は宗教の信者に対して「原理的に」「排除的」(ややこしい言い方だが、「排除」そのものではないとしても「原則として」排除「的」) になることが考えられる。別物ではあるが、昔のカンボジアのポルポト政権などは一部似た (似て非なる) 面があり、かつあれはその点においても近代史上最も醜悪な国家・社会だったものと思うが。言うまでもなく、上に書いたような「排除」的な社会も、ましてや「排除」貫徹型のグロテスクな社会も、拙者は支持しない。当然、反対。)

というわけで、上の(括弧書き段落を含めて)二段落に書いた通りで、「世俗主義」「政教分離」を旨とする社会・国家においても、ムスリムを含む「宗教」信者全般と共生することが必要と、拙者も思っている。

そのことは大前提。

ただ、その前までに書いた通りで、繰り返すが、「宗教」はその信者がどう思おうが、非信者からすれば「思想」の一つに過ぎず、他の(共産主義、社会主義などの政治思想を含む、極めて定義が難しい「民主主義」をそこに含めてもいいが、兎にも角にも)全ての「思想」同様、批判、風刺、戯画、時には嘲笑の対象になり得る。そして、どの「思想」の信奉者もそれを甘受せざるを得ない。それが人類社会における原則であってほしいというのが筆者の考え。

「宗教」だけは特別、例外扱いであって、「信仰」はそれ自体尊いものだ、よって他の思想と異なり、scrutiny(精密な調査・精査、吟味。それは当然ながら critical scrutiny 批判的な吟味になることもあり得る)の対象とはならない、などという考えには、到底賛同できない。そうした考えは、到底、受け入れられない。

もう一度、書く。「宗教」は「思想」の一種であって、他の「思想」同様に、精査、批判、風刺、戯画、時には嘲笑の対象にもなる。「宗教」の概念・原理・教義や「神」なるもの、「預言者」なるもの、そして現代を生きるその「宗教」の「権威」者(キリスト教カソリックならローマ法王、キリスト教プロテスタントやイスラームのスンニ派やシーア派にはカソリックにおけるローマ法王ほどの世界大の影響力を誇る宗教指導者はいないが、各国各地域で宗教上の「権威」を持つ指導者は存在する)などに対する批判、風刺、戯画(時には嘲笑)などは、仮にそのことで宗教の信者もしくは特定宗教の信者の多く「の心」が傷つくとしても、宗教を信じるもの個々人や特定宗教の「信者」全般といった一般の「人間」に対するヘイト・スピーチとは全く別物である。

イスラームを信仰する宗教上の「同胞」である、今現在を生きているウイグル族の人権を徹底弾圧する中国を「ボイコット」せず、一方で 7世紀に死んでいる故人の「預言者」の戯画や為政者による宗教「批評」を理由にフランス「ボイコット」を声高に叫ぶ、「事実上」多くのイスラーム信者たち

以下、本章見出しに掲げた現象に関する、筆者(今日取り上げた論考記事の筆者ではなく、本 note 投稿の筆者、つまり拙者!!)の感想と私見的な一言(「一言」と言うには長い!!)。

とりわけフランスにおいては「表現の自由」として守られるべきものとされる「表現」の手段の一つに戯画、風刺画の伝統があるが、そのフランスの風刺新聞「シャルリー・エブド」に描かれたイスラームの「預言者」ムハンマドの戯画が多くのムスリムの心情を傷つけ、その多くのムスリムは暴力を使わず言論によって抗議し、他の一部原理主義者による暴力行為にも反対したものと思いたいが(全体の中では少数ではあると思うが、自身はコミットせずともテロリストの残忍な行為に快哉を叫ぶ、あるいはそれを支持する、あるいは控え目に言っても「否定しない」ようなムスリムによるコメントが SNS 上で其処彼処に見られたのも事実)、一部イスラーム原理主義者は残忍な殺戮行為・テロリズムによって、そうした戯画や風刺画に対抗した。

一方、フランスの現大統領エマニュエル・マクロン(前々章でも書いたが念の為、マクロンは別に筆者の好きな政治家ではない、「全く」ない)は、こう語った。

"L’islam est une religion qui vit une crise aujourd’hui, partout dans le monde", 

アルジャジーラが英訳したところでは、"Islam is a religion that is in crisis all over the world today",

伊達聖伸氏による日本語訳は、「イスラームという宗教は、今日一つの危機を生きていて、それは世界中においてそうだと言えます」(同氏のツイートより)。

拙者の私見では、イスラームに限らず、いずれの「宗教」も今日「危機を生きていて」、もう一つの世界宗教でかつ同様にアブラハムの宗教であるキリスト教も同じように「それは世界中においてそうだ」が、しかし、キリスト教徒による例えばテロなどもあるものの、そうした過激で残忍なテロ行為や blasphemy(「神」や「預言者」に対する冒涜)の「罪を犯した」と見做した人間に対する殺戮や死刑を含む刑罰、Honor Killing 「名誉殺人」(これに関してはイスラームの「宗教」としての原理と何処まで関連づけられるか精査が必要だが、現代においてなお、ヒンズー教徒の社会とともにムスリムの社会でしばしば報告される非人道的な事象)など、近年もしくは現代においてはイスラームの「危機」的様相の方が目立つ。

ともあれ、イスラームも、他の「宗教」同様、危機に瀕している、と筆者(本 note 投稿で取り上げている論考の筆者である伊達聖伸氏ではなくて、拙者、つまり本 note 投稿の筆者!!)は考えているが、いずれにしても、

イスラームを信仰する宗教上の「同胞」である、今現在を生きているウイグル族の人権を徹底弾圧する中華人民共和国に対してはさしたる批判もせず、まして「ボイコット」などせず(一般のムスリムのうち少なくない人々がその件で中国を厳しく批判していることは知っているが「ボイコット」までは叫ばない、そして今回フランス「ボイコット」を声高に叫んだりフランスを手厳しく非難したトルコやイランなどの政治指導者や宗教指導者が上記の件で中国を批判したり、ましてや中国「ボイコット」を主張したりしたなどという話は聞いたことがない)、一方で、7世紀に死んでいる、故人であるイスラームの「預言者」ムハンマドの戯画や為政者による宗教「批評」もしくは「批判」を理由にフランス「ボイコット」を声高に叫ぶ、「事実上」多くの信者たちや、ましてイスラム圏の政治指導者・宗教指導者たちの姿は、「単なる滑稽」を通り越して、「シャルリー・エブド戯画」的な滑稽さを呈している。

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* 筆者(拙者)はもちろん、「ボイコット」という形態の抗議活動一般に反対しているのではない。世界のムスリムがフランスの何がしかに抗議してフランスを「ボイコット」するのも(筆者は今回それを合理的と思わないが)自由。本 note 投稿の主題上は「脱線」話題なので、簡単に書くが(しかしやや長い!!)、例えば、イスラエルという国が違法占領(1967年以来の東エルサレム・ヨルダン川西岸地区の占領、ガザ地区に関しては現在は軍事封鎖、複数の国連安保理決議に違反)、(違法)占領地における違法入植等の国際法・国連安保理決議・ジュネーヴ条約等に違反する行為をやめるまで、イスラエルに対する「ボイコット」「資本撤退」「制裁」(Boycott, Divestment, Sanctions)という手段を用いて、その反人道的・反民主的政策に抗議しようとする BDS 運動に関して言えば、その運動は人種差別的なものでは全くなく、抑圧された側を支援するための正当な抗議活動の手段の一つ。1948年に「建国」された国 Israel は Judaism とイコールでなく、Jewishness とイコールでなく、Semitism とイコールでなく、したがって、イスラエル(その政策)批判や BDS 運動を「反ユダヤ主義」(Anti-Semitism)と見做すのは、単にイスラエル批判の声を沈黙させたい、イスラエル批判の抗議活動を抑えたいという動機に基づく、不当なレッテル貼り。なお、Zionism も Judaism とイコールでなく、Jewishness とイコールでなく、Semitism とイコールでなく、したがって、Anti-Zionism は Anti-Semitism とは全く別物。こんなことは本来、子どもでも理解すべきことである。話を「ボイコット」に戻すと、仮に日本の政策に抗議して日本を「ボイコット」する運動があっても、それはイコール「反日本主義」「反日本人主義」といった人種差別に当たるものになるわけではない。BDS に関してはそのこととも同様。繰り返すが、本来、子どもでも理解すべきことである。


関連リンク: 「宗教」に関する筆者(拙者)の Satellite 試験飛行、じゃなかった SNS 私見投稿

いずれまた、「宗教」の問題についてあらためて note 上に投稿したいと思っているけれども、そのうちの幾らかについては、例えば以下の、Facebook 上における筆者(拙者)の「宗教」や「神政国家」に関する私見投稿を使うと思う(拙い英語で書いているその自分の英語テキストを自家翻訳して)。

「宗教」批判

「神政国家」批判

その他、最近フランスで起きたことに関する、Facebook 上での筆者(拙者)による投稿から、2点

ニースのキリスト教会信徒に対するイスラーム信者(原理主義者)によるテロとそれに関するニュース記事に関わって

チェチェンの愚かな「指導者」の主張内容に関わって


付録: How September 11 (2001) changed me, "Militant Atheism" by Richard Dawkins 〜 リチャード・ドーキンスによる「闘争的かつ積極的な無神論」

以下では、筆者が本年10月31日に note 投稿した「IMAGINE (John Lennon) 〜 Neil Young (歌詞和訳)」の第8章から、全文とヴィデオをそのまま(「文字通り」のそのまま)転載。

「利己的な遺伝子」("The Selfish Gene") などの著作で知られるイギリスの生物学者(進化生物学者, 動物行動学者)リチャード・ドーキンスが彼の無神論について語るこのヴィデオを本投稿の中で取り上げるのは、一つには本投稿の筆者、私自身が無神論者であり、かつ私自身、彼の考えに同意するという理由があるが、直接的には、彼がこの講演の最後において、"How did September 11 change you?", 「9.11 はあなたをどう変えたか?」という問いに答えているから。

彼はシンプルに、"Let's all stop being so damn respectful", 「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」と語っている。

彼のこの回答だけ聞くとシンプル過ぎると思われるかもしれないが、その前の28分強にわたる講演の中で、ドーキンスは具体的に様々な切り口から宗教の「ばかばかしさ」に迫っている。

タイトルの "Militant Atheim" は何も「好戦的な」無神論というわけではなくて(比喩としては日本語でそう言っていいかもしれないが)、(無神論という)大義のために闘志を持って論ずる、闘争的かつ積極的な「無神論」という理解でよいだろうと思う。

以下のウェブサイト上では、42言語の中から選んで日本語の字幕を付して、ドーキンスの講演を聴くことができる。

なお、以下は、字幕は無いけれども YouTube 上の同じ内容のヴィデオ。

(補足: 今気づいた、YouTube ロゴから左に2つ目をクリックすれば字幕が付く)


God 〜 by John Lennon

大の「音楽」好きの自分としては、本 note 投稿をこれで締め括りたい。音楽であるがゆえに多少の気分転換をもたらすかもしれない、今は亡きジョン・レノン(今年も命日が近づいてきた)が残した曲、タイトルは日本語に直訳すれば「神」、筆者(拙者)なりに意訳すれば、「神なるもの」。

上のヴィデオ, 最後に ニーチェ の言葉が出てくるようだけど, しかし ポルトガル語で記されているようで(ニーチェ はもちろんドイツ人)。 

3つ目は, Lyrics on the screen ♫

God is a concept by which we measure our pain
I'll say it again
God is a concept by which we measure our pain, yeah
Pain, yeah..

..............................

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部(最初のヴァース)のみの掲載に改めました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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