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フィレンツェ, ヴァチカンで想起するガリレオ・ガリレイ, ヨハネ・パウロ2世 〜 シネイド・オコナー, 結局「宗教」

フィレンツェ, ヴァチカンで想起するガリレオ・ガリレイ, ヨハネ・パウロ2世

1) ガリレオ・ガリレイ, そして ヨハネ・パウロ2世

以下の note から, この下に転載。

第2章「フィレンツェと言えば 〜 ルネサンス」の次の, 第3章「フィレンツェと言えば 〜 ガリレオ・ガリレイ」より(絵を挟んで計4段落)。

そうだ, 前章で「フィレンツェと言えば 〜 ルネサンス」なんて前振りして話をどんどん飛ばしていったけれど, その「ルネサンス」の時代のリュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイは, あのガリレオ・ガリレイの父親ガレリオ・ガリレイは「ルネサンス」の時代が終わった直後ぐらいの時代に活躍した(歴史的には活躍と言えるけれど, しかし当時のキリスト教「教会」権力からは酷い仕打ちを受けた科学者で, 生まれは 1564年(生誕の地は フィレンツェ公国, ピサ), 1585年には フィレンツェ に移住, 1642年にトスカーナ大公国の フィレンツェ郊外にあるアルチェトリというところで亡くなっている。

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ガリレオ・ガリレイは「地動説」という歴とした科学の説を唱えた(コペルニクスの地動説を観測によって実証した)廉で 2度にわたりローマ教皇庁による宗教裁判(異端審問)にかけられ, 2度目の裁判では終身刑の判決を受けて, 直後に軟禁に減刑されたものの, フィレンツェ の自宅に戻ることは認められなかった。
後の時代にローマ教皇(当時はヨハネ・パウロ2世)が 17世紀のローマ教皇庁によるガリレオ「異端」裁判の誤りを公式に認め, 既に(とうの昔から)この世にいない ガリレオ に謝罪したのは 1992年。その時は既に, ガリレオの後半生に塗炭の苦しみを与えた不当な判決から実に 359年, 彼の死から350年の時が流れていた。
フィレンツェには 1983年7月2-4日の間いたけれど, その後, ローマに 7月4-8日, 4泊5日滞在して, 6日には ヴァチカン市国 も訪問した。ヴァチカン, ローマ教皇がらみで, 後日この件あらためて note 投稿しようかなと思っている。

2) ヨハネ・パウロ2世

以下の note から, この下に転載。

第1章「ヴァチカン市国 〜 写真 3枚」より(1段落分), その下の ヨハネ・パウロ2世 の写真のさらに下は, ここではおまけの転載, プラス α ♫ ... 因みにウィキからの受け売りだけど, アルファ α(古代ギリシア語: ἄλφα アルパ, ギリシア語: άλφα アルファ, ギリシア語ラテン翻字: alpha)は, ギリシア文字の第1番目の文字(ギリシアの数字の数価としては1を表す; ラテンアルファベットの「A」や キリル文字の「А」は この文字を起源とする)。最後の括弧の中はともかく, ギリシア, ギリシャは, ちょっとプラスα 部分に関係ある。

38年前, 筆者が ヴァチカン市国 を訪れた1983年当時のローマ教皇はこの人, ヨハネ・パウロ2世カロル・ユゼフ・ヴォイティワ, Karol Józef Wojtyła; 1920年5月18日生まれ, 2005年4月2日他界)だった。ポーランド出身の第264代ローマ教皇で, 在位は1978年10月16日から, 亡くなった日, 2005年4月2日まで。2021年の今もそこはおそらくは似たような感じかなと思うのだけれど, 当時, この人のプロマイド(ポストカードもあったかな)のようなものが随分と売られていた。妙なことを記憶しているもので, ヨハネ・パウロ2世のプロマイドなどが陳列されたスタンドの前に立ってそれを興味本位に眺めていたら, たまたまそのとき直ぐ横になんというかキュートな感じのヨーロッパの何処かの国の人だったのかアメリカ人だったのか分からないけれど(当時の筆者と同年齢くらいの)女性が立っていて, ニッコリ, 隣りの筆者にも微笑みを向けながら "Oh, Pope!" と声を出していた。厳密に言うとこの瞬間が奇妙な記憶というものかもしれないけれど, 一瞬の間, なんか声かけてみようかなと思ったことを憶えている。ヨハネ・パウロ2世に対してでなく, そのキュートな女性に(笑)。何はともあれ, ヨハネ・パウロ2世は, 世界的にかなり人気がある教皇(法王)だったと思う。

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信仰者でない人間が「教皇」の写真など載せたりして, だんだん居心地わるくなってきたので(まぁ冗談, 大したことでもないんだけど, 次の歌への前振り, 笑), ちょっと 1曲聴いて, 気分転換しよう ♫
聖ヴィンセント が歌う「救世主」〜 "Savior" by St. Vincent

St. Vincent 命名の背景については歌詞の後で)

Savior 〜 from St. Vincent's fifth studio album "Masseduction", released on October 13, 2017

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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ここからは本 note のトピックからちと離れて, St. Vincent 命名の背景について, それと Dylan Thomas から思い浮かんでしまった Paul Simon のある曲について。

因みに Dylan Thomas はイギリス, ウェールズの詩人・作家(1914年10月27日にウェールズ南部の都市スウォンジーで生まれ, 1953年11月9日にアメリカ合州国ニューヨーク・マンハッタンのセント・ヴィンセント病院で死去, 埋葬されたのはウェールズの墓地とのこと)。

これの,

1.2 2003–2007: Career beginnings and Marry Me によると,  

In 2006, Clark began recording a studio album under the stage name St. Vincent. In an interview on The Colbert Report, she said that she "took [her] moniker from a Nick Cave song", which refers to the hospital in which Dylan Thomas died. The reference is to the line "And Dylan Thomas died drunk in / St. Vincent's hospital" from Cave's song "There She Goes my Beautiful World" from the album Abattoir Blues/The Lyre of Orpheus. The name is also a reference to her great-grandmother, whose middle name was St. Vincent.

https://ja.wikipedia.org/wiki/セイント・ヴィンセント の「来歴」の項によると,

2006年、ベガーズ・バンケット・レコードとソロ・アーティスト「セイント・ヴィンセント」として契約を結ぶ。彼女は詩人ディラン・トマスの大ファンで、彼が亡くなった場所である Saint Vincent Catholic Medical Center から名前を取った。翌2007年、1stアルバム『マリー・ミー』をリリース。

Dylan Thomas から思い浮かんでしまった Paul Simon のある曲については, 以下の note に載せたことがあって(その時の切っ掛けは Dylan Thomas ではなかったけれど, しかしまぁ歌詞に Dylan Thomas が出てくるので),

ただしその曲はこの note のタイトルにある「アメリカの歌」(American Tune)ではなく,

以下は, 上掲リンク先 note 第8章「Mayflower とは何か? (簡単で散漫な攻撃的演説)」に載せた, "A Simple Desultory Philippic", 邦題は「簡単で散漫な演説」。

その章からの転載。

Paul Simon's "A Simple Desultory Philippic (Or How I Was Robert McNamara'd into Submission)", この曲は Simon & Garfunkel 時代の Paul Simon のソロ・アルバム "The Paul Simon Songbook" (1965) と、Simon & Garfunkel の 3枚目のアルバム "Parsley, Sage, Rosemary and Thyme" (1966) に収録されていますが、歌詞は異なります。
この歌の邦題は「簡単で散漫な演説」ですが、"Philippic" という単語は、
1. デモステネスのフィリッポス王攻撃演説◆紀元前351年からアテネの雄弁家Demosthenesが行った、マセドニア王Philip II(Philip the Great)の独裁を非難し自国民のふがいなさをなじった激しい演説を指す。
2. キケロのアントニウス攻撃演説◆紀元前44年に古代ローマの政治家Marcus Tullius Ciceroが行った、Marc Antony(ラテン語でMarcus Antonius)を激しく攻撃する13回の演説を指す。◆【語源】デモステネスの行ったPhilippicより
ということのようです(Space alc から丸写し)。
これは、"The Paul Simon Songbook" に収められたヴァージョン。
最後の方で ”haiku” 「俳句」 という言葉も登場します。「ロンドンにいる時は俺のようにしな。いい俳句でも見つけて10年か15年眠るのさ」 と言ってるんですが、このころ既に俳句は一部のアメリカもしくは欧米のアーティストのうちでトレンドの一つになっていたんですね。ビート詩人とか前衛の人たちの間だと思いますが。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部のみの掲載に改めました。歌詞・全編に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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He couldn't think of nothin' at all.
He's not the same as you and me.
He doesn't dig poetry. He's so unhip that
When you say Dylan, he thinks you're talkin' about Dylan Thomas,
Whoever he is.
The man ain't got no culture,
But its alright, Ma,
It's just sumpthin' I learned over in England.

...

When in London, do as I do
Find yourself a friendly haiku
Go to sleep for ten or fifteen years
この曲が収録された Paul Simon のソロ作 "The Paul Simon Song Book" について、以前、原始的 html だけで作った自分のホームページで紹介したことがあります(ただしこれもカオスなテキストですが)(加えて OS次第で文字化け)。
以下は、歌詞が一部、異なります。"Parsley, Sage, Rosemary and Thyme" に収録されたヴァージョンです。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部のみの掲載に改めました。歌詞・全編に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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I knew a man, his brain so small
He couldn't think of nothing at all
He's not the same as you and me
He doesn't dig poetry. He's so unhip that
When you say Dylan, he thinks you're talking about Dylan Thomas
Whoever he was
The man ain't got no culture
But it's alright, Ma
Everybody must get stoned

...

(Folk rock...)
(I've lost my harmonica, Albert...)
どちらのヴァージョンにもボブ・ディラン Bob Dylan が登場しますが、こちらのヴァージョンの最後、"I've lost my harmonica, Albert..." の Albert とは、当時の Bob Dylan のマネージャー Albert Bernard Grossman (May 21, 1926 – January 25, 1986) のことです。
当時のポール・サイモンは本来は全くスタイルが異なるディランと比較されることを嫌いながら、しかし一方でディランの存在をかなり意識していたのかもしれません。二人は歌い方も元々全く違いますが、とりわけ上に挙げた 2つのうち前者の方は、ポール・サイモンがわざわざディランの歌い方で歌っている、ディランの歌い方をパロディ化している感じがあります。歌詞の中のディランに言及した部分に関して言えば、ディランをおちょくっている感もあります。

上掲(最早だいぶ上の方のことだけど, 笑)リンク先 note ではこの後, 「ボブ・ディラン?」という見出しの章を置いて, 

ディランか。ここであらためてディランに対する Philippic 攻撃的な演説をしておこう。

と続けてるんだけど, この続きはまた今日のこの note フィレンツェ, ヴァチカンで想起するガリレオ・ガリレイ, ヨハネ・パウロ2世 〜 シネイド・オコナー, 結局「宗教」 の中, その後段にて。

さてさて, 些かの脱線が, ボリューム的に長過ぎ!

ガリレオ・ガリレイ 〜 それでも地球は

17年前に自分のホームページ上の「日記」コーナーに書いていたもの, 2本, その 1本目。

2004年 1月25日(日)   それでも地球は回っている

本日の2本目はガリレオ・ガリレイの話。ウソを何十回も繰り返して「本当」にしてしまおうっていう21世紀初頭の米帝ブッシュと違い、異端視されながらも自分が真理と確信するものを訴えた16世紀から17世紀のイタリアの人、ガリレオですね。

*「2本目」というのはその日の2本目の日記ということで, その日の1本目は「アメリカのイラクWMD調査チーム責任者が辞任、曰く 『もともと存在しなかった』」というタイトルの日記だった。

それでも地球は回っている。
それでも地球は動いているってのが直訳なのかな、後に伝記で、ガリレオが宗教裁判で「有罪」を宣告された後につぶやいた言葉とされたわけだけど、これは昨日の朝日の土曜版の特集で知ったんだけど、伝記作家の創作なんだってね。科学史の世界ではとうに「常識」らしい。78年間生きたガリレオはその時既に70歳近く、教会権力から完全な屈服を余儀なくされ、それほど元気もなかっただろうってことのようです。
ガリレオは(当時オランダで発明されて間もなかった)望遠鏡を改良し、コペルニクスの地動説を立証する数々の天文学上の発見をしたが、聖書の記述と矛盾する地動説を支持したとして、フィレンツェでローマ法王庁異端審問所の裁判にかけられた。結果は現代で言うところの「執行猶予」。ところがその後に執筆した「天文対話」に愚者として登場する人物が当時の法王をモデルにして描かれたものとの噂が流れ、これが二次裁判に至るきっかけになったという。二次裁判では「有罪」。つまり「異端者」と判定されたというわけだ。
その後はフィレンツェ郊外の別荘で半ば幽閉されて過ごし、さらには両眼を失明しながら、新たに「新科学対話」という書名の著書を執筆したガリレオ。
それでも地球は回っている。 - この有名な言葉自体は後の人の創作だったらしいけれども、ガリレオはたぶん、言葉に発しなくとも、その attitude は失わなかったんじゃないか。僕はそう勝手に想像しています。
僕には自分が確信する真理はない。I am agnostic. まぁ世界はつまるところ主観で捉える世界、そこでは こんなふうに考える 真理、真実もある。そういう意味では ある んですね。「僕の」「僕らの」世界の中には。

こんなふうに考える」というところでは, 自分の Paul Simon "Kathy's Song" (And so you see, I have come to doubt, all that I once held as true. I stand alone without beliefs. The only truth I know is you ... And as I watch the drops of rain weave their weary paths and die. I know that I am like the rain. There but for the grace of you go I ... There but for the grace of God go I ではなくて, There but for the grace of you go I ♫) の歌詞和訳, ホームページ上に載せたそれにリンクさせていた。

その後, ホームページ上に載せていた自分の和訳に一部意訳というより誤訳が含まれていることに気づき, 以下の note 内では訂正。この「(拙訳)」という自虐表現はだいぶ前から使わないようにしているけれど(その理由は割愛, ここでは文字数を「節約」するため, 笑)。

それは、ある。そのうえで 金色の心 を探したり、自由の値 を探したりしたいもんだと思っているのです。
生命 (いのち) は本当にかけがえのないものだから、ずっと生きてゆくことです。
僕は粘っこく、勝手に生きます。この 日本国南東北 の地に足つけて勝手に生き続けます。

金色の心」では, 自分の Neil Young "Heart of Gold" の歌詞和訳, ホームページ上に載せたそれにリンクさせていた。note では以下。

自由の値」では, 自分の CSNY "Find the Cost of Freedom" の歌詞和訳, ホームページ上に載せたそれにリンクさせていた。note では以下。

生命 (いのち) は本当にかけがえのないものだから、ずっと生きてゆくことです。そのかわりと神は言った。「おまえたちに空っぽをあげよう」

生命 (いのち) は本当にかけがえのないものだから、ずっと生きてゆくことです。とは, 以下からとったもの。

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生命 (いのち) より大切なものはない
生命 (いのち) より大切なものは何もないのだ
生命 (いのち) が生きてゆくために生きている

理想や目標は
地面に手を付き命乞いをしなさい
生命 (いのち) は本当にかけがえのないものだから
ずっと生きてゆくことです

そのかわりと神は言った
おまえたちに空っぽをあげよう

...................................................................

上に載せた, 2004年 1月25日(日) 付のホームページ上の日記は, 以下のリンク先。ただしホームページは2001年8月に本を買って HTML独学してその基礎だけで立ち上げたホームページで, 以降, 仕様を一切変えておらず, PCからなら今もどのブラウザでも問題なく閲覧できるようだが, スマホからだとOS次第で文字化けする。

ガリレオ・ガリレイ 〜 ローマ教皇(ヨハネ・パウロ2世)が誤りを認め, 謝罪したのは, ガリレオの死から 350年後

前章に続き, 17年前に自分のホームページ上の「日記」コーナーに書いていたもの, 2本, その 2本目。

2004年 1月25日(日)   ガリレオの attitude

上のガリレオ・ガリレイの話に補足します。
「ガリレオは」「聖書の記述と矛盾する地動説を支持したとして、フィレンツェでローマ法王庁異端審問所の裁判にかけられた。」と書いたことについて、クリスチャンの知人から連絡をもらいました。当時の教会の権力が(人間がコントロールした機関としての「教会」が現代と比べて社会的に大きな「権力」を持っていたのは間違いありません)、ガリレオの唱えた説を「聖書の記述と矛盾する」として異端裁判にかけたことは歴史的事実と言っていいと思いますが、聖書の内容そのものについて僕自身が詳しいわけではありません。ほんのごく一部の記述を知っているだけだし、仮に多くの記述を知っているとしても、例えばクリスチャンによる理解からすれば「知らない」ということになるでしょう。
キリスト教と科学の関係で言えば、よく取り上げられるのは地動説と進化論だと思いますが、僕は後者の方の現状には深入りしないです。し出したら、ダーウィンからリチャード・ドーキンスやスティーヴン・ジェイ・グールドまで言及・・・するには力不足。(話は違いますが、一部の宇宙飛行士が信仰回帰するのは興味深いですね、現象としても。)
知人のクリスチャンから連絡を受けた内容を以下の一段落に記します。上に書いたように、僕自身が聖書の記述を正確に知っているものではありませんが、信頼する人からの連絡なのでここに内容を掲載しておきたいと思います。私信のそのままの引用は避け、しかし要旨はなるべく正確に載せたいと思います。以下の一段落です。
聖書に書かれていることは本来は地動説で、当時の教会の聖書理解が不正確だったことが、今ははっきりしている。教会もしくはクリスチャンは、時に、あるいは往々にして、そういう間違いを犯しつづけている。聖書が言っていることを正しく理解できずに、自分だけの判断で解釈し、その解釈を、神のことばだ、と主張する。ガリレオは聖書や創造主に反抗したのではなく、その当時の教会の教職者に反抗した。

今あらためて, この現代の誠実なクリスチャンの一人による説明には, しかし些かの無理はあるように思うけれども。

連絡いただいた内容は、信頼するクリスチャンの知人の説明としてそのまま受け入れます。ただ、ガリレオが何に反抗したのか、そのことは、今の僕には分かりません。僕の歴史的知識も不十分ですが、ましてその時期失意の底にあったであろうガリレオの心の中が分かるとは言えません。分からないことの一つは、少なくとも当時のガリレオが、時の教会権力とキリスト教、キリストの教えを明確に区別していたかどうか、ということです。それは分からないのですが、一つ言えるのは、ガリレオが政治を利用した権力であれ宗教を利用した権力であれ、おそらくは社会の大勢を動かす人間たちの「権力」に盲従するよりも、自分が真に確信するに至ったものの方を選んだ、その attitude を選び取って生きたということで、そしてそれを最後まで失わなかったのではないかと僕が想像している、ということです。
ガリレオが生まれたのは 1564年、没したのは 1642年。ローマ法王がガリレオ「異端」裁判の誤りを公式に認めたのは 1992年です。誤った判決から既に 359年の時が流れていました。

ガレレオの死から数えれば, 350年の歳月。

ちなみに、ローマ法王と言えばもちろんカソリックですが、僕らが学校で習った「宗教改革」で生まれたのがプロテスタント。クリスチャンでない僕が宗教としてのキリスト教に好感を持つことの一つは、信仰者内部のなかに新しい考え方や解釈が生まれ、変化していく力を持っているように思えるところです。それでいて、クリスチャンでない僕として、報道等で知る限り、現在のローマ法王その人には好印象を持っています(敬虔なカソリックは「好印象」なんて軽い言葉使わないだろうけど)。現ローマ法王には(以前の人は知らないし)真理を追う人の信念の強さや誠実さを感じます。社会的に論争の的になる社会問題の一つ一つに関しては個人的に意見が違うところもありそうですが、過去にカソリック教会が陥った誤り、過ちを認めることに躊躇しない人だし、とにかく姿勢 attitude の一貫性を感じます。いつだったか、朝日に掲載された加藤周一の論稿にもそんなことが書かれていて、共感を覚えたものでした。(僕が)日本の数少ない真の知識人の一人であると想う「知」の巨人に「共感」なんて言い方もダイソレテますが(笑)。
上の日記にも書きましたが・・・  それでも地球は回っている。 - この有名な言葉自体は後の人の創作だったらしいけれども、ガリレオはたぶん、言葉に発しなくとも、その attitude は失わなかったんじゃないか。僕はそう勝手に想像しています。
僕には自分が確信する真理はない。I am agnostic. まぁ世界はつまるところ主観で捉える世界、そこでは こんなふうに考える 真理、真実もある。そういう意味では ある んですね。「僕の」「僕らの」世界の中には。そうして、僕は生き続けます。

I am agnostic, 今なら英語で言うなら, I am an atheist と, はっきり言うけれども。

それと, 前章でも書いたけれど, 「こんなふうに考える」というところでは, 自分の Paul Simon "Kathy's Song" (And so you see, I have come to doubt, all that I once held as true. I stand alone without beliefs. The only truth I know is you ... And as I watch the drops of rain weave their weary paths and die. I know that I am like the rain. There but for the grace of you go I ... There but for the grace of God go I ではなくて, There but for the grace of you go I ♫) の歌詞和訳, ホームページ上に載せたそれにリンクさせていた。

その後, ホームページ上に載せていた自分の和訳に一部意訳というより誤訳が含まれていることに気づき, 以下の note 内では訂正。この「(拙訳)」という自虐表現はだいぶ前から使わないようにしているけれど(その理由は割愛, ここでは文字数を「節約」するため, 再笑)。

上掲の 17年前の日記に出てくる「知人のクリスチャン」, 現代の誠実なクリスチャンの一人とは, その人がおられた(今もいると思う)プロテスタントのキリスト教会で行なわれたゴスペル・ワークショップに家族(妻, 息子)と共に参加していたことがあって(2001年-2003,4年頃まで, クワイアで歌うことを楽しんだ), それで知り合った。

そのキリスト教会が招んでくれて, 妻子と3人で共演, その教会の礼拝堂で(昔々だったらキリスト教会にとっては「悪魔の音楽」, 笑)ブルーズを歌ったことがある ♫ 素人の演奏ではあるけれど(筆者のヴォーカルやギターはともかく, 妻のピアノ, 息子のコーラス・タンバリン・ハーモニカは上出来!), 教会の皆さんも聴衆の皆さんも楽しんでくださった。

さてさて, 

上に載せた, 2004年 1月25日(日) 付のホームページ上の日記は, 以下のリンク先。ただしホームページは2001年8月に本を買って HTML独学してその基礎だけで立ち上げたホームページで, 以降, 仕様を一切変えておらず, PCからなら今もどのブラウザでも問題なく閲覧できるようだが, スマホからだとOS次第で文字化けする。

次章への「オープニング・アクト」 〜 ボブ・ディラン

ボブ・ディランの不都合な真実 ー 1982年イスラエルのレバノン侵略とパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれたイスラエル支持ソング

ボブ・ディランの不都合な真実(2)ー または 私が 37年余り購読し続けた「朝日新聞」の購読を止めた理由

ボブ・ディランの恥ずべきイスラエル支持ソングと、サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件 38周年(2020年9月17日 note 投稿)

これは ディランというよりも, ジミヘン讃歌 note ♫ All Along the Watchtower ー OF COURSE, by Jimi Hendrix (歌詞和訳)

次章は, シネイド・オコナー。

シネイド・オコナー

先に一言, 前章で今日の note と「ほぼ」関係ないボブ・ディランを取り上げたのは, 本章の後段で, ここでの「脇役」ディランへの言及があるから。

前々章に転載した17年前のホームページ上の「日記」の中で, 「... それでいて、クリスチャンでない僕として、報道等で知る限り、現在のローマ法王その人には好印象を持っています(敬虔なカソリックは「好印象」なんて軽い言葉使わないだろうけど) ... 」云々, 書いていた。

350年以上も経ってからのようやくのことではあるが, ローマ教皇庁によるガリレオ「宗教裁判」の誤りを認め, (既にこの世にいない)ガリレオへの謝罪を行なったのは, 当時の「ローマ法王」(しばらく前から「教皇」という呼称が日本での公式になっている)ヨハネ・パウロ2世 だった。

その ヨハネ・パウロ2世 ではあるが, 

これ, ロック・ファンなら大抵の人が知っている出来事だけれど, もともと敬虔・厳格なカトリックの家庭で育ちそれに対する反発で少女時代荒んでいたとされるアイルランド人ミュージシャン, シネイド・オコナー(Sinéad O'Connor, 1966年12月8日生まれ)は, 1992年10月にアメリカ合州国の「サタデー・ナイト・ライブ」に出演, その生放送中, ボブ・マーリー(Bob Marley; 1945年2月6日生まれ, 1981年5月11日他界)の歌 "War" を歌った直後, カトリックのキリスト教会における, 聖職者による長年の児童への性的虐待問題への対応(の無さ, あまりの不十分さ)に抗議, 当時のローマ教皇を "Real Enemy"「真の敵」だとして非難し, ヨハネ・パウロ2世 の写真を破り捨てたのだった。

"War" を歌うパフォーマンス全編を含むのはこれ("War" の歌詞は本章の後段で掲載する)。

そしてその後, 1992年10月16日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行なわれたボブ・ディランのレコード・デビュー30周年を記念したコンサートに出演した際は, 直前の「サタデー・ナイト・ライブ」での ヨハネ・パウロ2世 の写真破り捨て「事件」によって超満員の聴衆から大ブーイングを浴び, そこで当初はディランの歌のカヴァーを歌うはずだったところ, 急遽ボブはボブでもボブ・マーリーの歌, それも件の「サタデー・ナイト・ライブ」の時と同じ "War" をやはり伴奏無しで歌った, あの一件。

あれは ロック史に残る,

見事にパンクな数分間 だったと思う。筆者, あの シネイド・オコナー には拍手喝采を送った(MSGの聴衆は大ブーイングを続けていたけれど!)。

因みに元歌, ボブ・マーリーの "War" はこれ。

War 〜 from Bob Marley and the Wailers' 1976 album "Rastaman Vibration"

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部(最初のヴァース)のみの掲載に改めました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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Until the philosophy which hold one race 
Superior and another Inferior
Is finally
And permanently
Discredited
And abandoned
Everywhere is war
Me say war

...

シネイド・オコナー, しかし結局は「宗教」回帰(嘆息!)

前章で取り上げた通りの シネイド・オコナー だけれど, もともと厳格なカトリックの家庭に生まれたという彼女, 結局は「宗教」なるものに回帰 してしまったのだった。

1999年にはキリスト教系新興宗教団体「独立カトリック教会」の「女性司祭」となり, その後, なんとなんと, 2018年には イスラム教への改宗 を公表。

ほんと, なんとまぁ。カトリックに「洗脳」され, しかし カトリックに反発し, そのうち「独立カトリック教会」なる組織に加わり, それから20年ぐらい経ったら, 今度はなんと イスラーム だという。

宗教と表現の自由に関するメモ 〜 フランス文化・宗教学者によるフランス「斬首事件」論考の読後感想と私見

3.11 と、そしてこの日に絡む 「宗教」 に関わる思い出と

自然災害の犠牲者を「彼らは神を信じてないからその報いだ」と語る(一部)宗教信者の愚劣さ

自分はパレスチナ/イスラエル問題において, イスラエルのパレスチナ人に対するアパルトヘイト政策, そして「民族浄化」政策を批判・非難し, パレスチナ人の人権擁護や民族自決権支持の立場ではあるけれど, イスラームの原理主義など, とても支持なり賛同なりできるものではない, 当然ながら!

女性は男性保護者の許可なく旅行することはできない 〜 ガザ地区をサウジアラビア化しかねないハマースのイスラム法廷の愚

この際, キリスト教 の方にもちょっとね(笑)。クリスマスの真実 〜 イエス・キリストのこと知ってる?

無神論者 が好きな クリスマス・ソング 〜 7時のニュース/きよしこの夜, ハッピー・クリスマス(戦争は終った)

もうこの辺にしておくか, この無茶苦茶な組み合わせ ♫ 911 〜 ハナミズキ(一青窈), リチャード・ドーキンス 〜 Teach Your Children (CSNY) 〜 ハナミズキ, Our House (CSNY) ... 以下リンク先 note の第3章を, 本 note の次章に転載。 

911 はあなたをどう変えたか? 〜「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」(リチャード・ドーキンス)

前章の最後に書いた通り, これは前章最後にリンクを置いた note の第3章からの転載。

2001年の 911アメリカ同時多発テロの犠牲者たち、彼ら一人一人に突然その命を奪われる理由、殺される理由などあったはずもなく、あのテロの実行者たちの愚かさを言うのなら既にそれだけで十分というものだ。犠牲者の無念、遺族の悲しみを想えば、彼らに対する気持ちは単に「同情」という言葉では言い尽くせないものになる。
ただ、一方で、あの後「テロとの戦い」を掲げて「報復戦争」(しかも首謀者でも何でもない国々やそれらの国々の一般市民に向かって戦争)をやってのけたアメリカ合州国という国(国家)に対しては、率直に言って同情の念など全く感じない。その辺り、本 note 投稿の冒頭でリンクを貼った昨日2021年3月24日付の note 投稿の「付録 1: アメリカ同時多発テロ (2001年9月11日) 前史 〜 『ボウリング・フォー・コロンバイン』(マイケル・ムーア, 2002年) より」など見ていただければ分かりやすい(一例を挙げればチリの 911, つまり 1973年9月11日にチリで起きたアメリカの画策によるクーデターによって民主的に選ばれた当時のチリの大統領だけでなくその後あの国で一体どれだけの市民が尊い命を落とすことになったのか)。もっと詳しくは、同じ note 投稿の中の「2001年9月21日の『アメリカ同時多発テロ・犠牲者追悼』イヴェント と 10月20日の Concert For New York の 異同」との見出しをつけた章における脚注 *4 にリンクを載せた過去の note 投稿 3点など。
他方、というか、話を戻すようなことにもなるが、あの 911 のテロ行為がこれまでずっと言われてきたように、宗教による狂信が単なる反米思想ということに留まらない憎悪の感情を増幅させ、アメリカの過去の対外政策への責任の問題に直接的な関わりを持たない、その意味において何の関係もない一般市民の命を無差別に奪ったものであるとするなら、彼らテロリストたちの行為には、当然ながら一片たりとも肯定できる部分などない。あれはあまりに愚かしく、完全に否定さるべきテロ行為だった(少なくとも一般市民を狙ったテロ行為に肯定できる部分などあろうはずもないわけだが)。
911(もちろん上述の 1973年のチリで起きた 911 でなく 2001年のアメリカで起きた 911)に関わることを取り上げる note 投稿において(あるいは「宗教」の問題に関わる note 投稿において)筆者が、「利己的な遺伝子」("The Selfish Gene") などの著作で知られるイギリスの生物学者(進化生物学者, 動物行動学者)リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)が彼の無神論について語る以下のヴィデオを繰り返し繰り返し紹介してきたのは、一つには筆者、私自身が無神論者であり、かつ私自身、彼の考えに同意するという理由があるが、911 に関わって言うなら、直接的には彼がこの講演の最後において "How did September 11 change you?",「911 はあなたをどう変えたか?」という問いに答えているからだ。
彼はシンプルに、"Let's all stop being so damn respectful", 「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」と語っている。
彼のこの回答だけ聞くとシンプル過ぎると思われるかもしれないが、その前の28分強にわたる講演の中で、ドーキンスは具体的に様々な切り口から宗教の「ばかばかしさ」に迫っている。
タイトルの "Militant atheism" は何も「好戦的な」無神論というわけではなくて(比喩としては日本語でそう言っていいかもしれないが)、(無神論という)大義のために闘志を持って論ずる、闘争的かつ積極的な「無神論」という理解でよいだろうと思う。
以下の YouTube 上のヴィデオ、ロゴから左に2つ目をクリックすれば英語字幕が付く。

以下のウェブサイト上では、42言語の中から選んで日本語の字幕を付して、ドーキンスの講演を聴くことができる。

付録 〜 ガリレオ・ガリレイ と ルネサンス について

まさしく, 付録。

ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei: Galileo di Vincenzo Bonaiuti de' Galilei; 1564年2月15日生まれ, 1642年1月8日他界)はルネサンスと関連付けられて取り上げられることがしばしばあるが, 

以下, 年代などはこれを思い切り安直に(笑)参照, 

ガリレオが生まれた 1564年はシェークスピアの生まれた年であるとともにカルヴァンが死んだ年。「地動説」のコペルニクスは1543年に死んでいて, 彼と同時代ではない。17世紀前半はフランシス・ベーコンやデカルトの活動と重なり, 彼が死んだ 1642年には, ニュートンが生まれている。したがって, ルネサンスの時代の次に現われ, 科学革命の時代を切り開いた人物とみるのが妥当。

ガリレオは 16-17世紀のイタリア, フィレンツェで活躍した。その時代のヨーロッパは最大で最後の宗教戦争であった三十年戦争(1618 -1648)の最中。また, 幾度目かのペストが流行し ー MEMENTO MORI ー イタリアという国自体も分裂抗争の最中であって, 中世から近代への過渡期にあった。

ガリレオは コペルニクスの「地動説」を観測によって実証し, 科学革命を代表する人物となったが, 異端扱いされて訴えられ, ローマ教皇庁による宗教裁判が 2度にわたって行なわれた結果, その学説と主張は異端と判断されて彼は有罪となり, 終身禁固刑を宣告された(後に軟禁刑に減刑)。それは科学が宗教の名によって抑圧された最後の事件であり, その後は新たな発見が相次ぎ, 科学が革命的に発展, 西欧における「科学の時代」の幕が開くこととなった(もっとも宗教, 少なくともその「部分」は今も科学を抑圧し続けていると思うが)。

ところで,

画像3

本 note 第1章の冒頭で, 自分のフィレンツェ note からの転載をしたけれど, その 1段落目は以下の通り。

そうだ, 前章で「フィレンツェと言えば 〜 ルネサンス」なんて前振りして話をどんどん飛ばしていったけれど, その「ルネサンス」の時代のリュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイは, あのガリレオ・ガリレイの父親ガレリオ・ガリレイは「ルネサンス」の時代が終わった直後ぐらいの時代に活躍した(歴史的には活躍と言えるけれど, しかし当時のキリスト教「教会」権力からは酷い仕打ちを受けた科学者で, 生まれは 1564年(生誕の地は フィレンツェ公国, ピサ), 1585年には フィレンツェ に移住, 1642年にトスカーナ大公国の フィレンツェ郊外にあるアルチェトリというところで亡くなっている。

つまり, ガリレオ・ガリレイの父親は, ルネサンス の時代に活躍した「ルネサンス音楽」の音楽家の一人, リュート奏者の ヴィンチェンツォ・ガリレイ だった。

の 3 ルネサンス史, 3.1 イタリア からの受け売り!

音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期である。16世紀後半のフィレンツェで、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがなされた。主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父)、ピエトロ・ストロッツィである。彼らは従来のポリフォニー音楽では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がった。また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペーアの戴冠』といった傑作が生まれた。

古代ギリシア音楽の復興 かぁ。「デモステネスのフィリッポス王攻撃演説, 紀元前351年からアテネの雄弁家 Demosthenes が行った, マセドニア王 Philip II(Philip the Great)の独裁を非難し自国民のふがいなさをなじった激しい演説」に関連する「簡単で散漫な演説」つまり "A Simple Desultory Philippic" については, 本 note 第1章の終盤にて ... とめっちゃ強引に繋げる!

それともう一つ, ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出, そうなのかそうなのか, というわけで, 

の第3章「ローマ, フォロ・ロマーノ(古代ローマの遺跡群)など 〜 写真 8枚」の最後の2枚の写真, それから第4章「うたかたのオペラ 〜 加藤和彦, 1980年9月25日リリース ♫」に, オペラ が登場するのだった ... と, またまためっちゃ強引に繋げる!

「強引」祭りはこれにて。次章では再び ガリレオ, でもハムスターのガレレオ

一息入れる付録 〜 ガリレオ, 我が家のハムスターの「ガリレオ」

20年前に飼っていて, 2001年11月28日に短命の生涯を終えた, 我が家の ガリレオ。リス輪でひたすらグルグル 回っている 様子を見て, ガリレオ と名付けたのだった, 何故って 〜 その昔はあの ガリレオ 曰く, とされていた「それでも地球は回っている」。直訳は「動いている」だったかもだけど, ま, いいっしょ。

懐かしい!

ほとんど「家族」同然の存在だった。

ガリレオ「他界」の日の日記。2001年8月に本を買って HTML独学, その基礎だけで立ち上げ, 以降は仕様を全く変えてないホームページ上, PCでのブラウザなら問題ないけれど, スマホだとOS次第で文字化けする(リンク先はホームページの左側メニューの方をカットした部分)。

何となくこれ 〜 Teach Your Children (CSNY), 歌詞和訳

ってか, シネイド・オコナー, しかし結局は「宗教」回帰(嘆息!) の章の中の最後にリンクを置いた note, これ

の終わりから数えて 3番目の章の転載。

上掲リンク先 note は「前説」の後,

ハナミズキ (歌) 〜 一青窈
ハナミズキ (花)
911 はあなたをどう変えたか? 〜「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」(リチャード・ドーキンス)
Teach Your Children (CSNY) 〜 歌詞和訳
我が家のハナミズキ
Our House 〜 CSNY

以下は, 今日のこの note の中で既に転載した 911 はあなたをどう変えたか? 〜「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」(リチャード・ドーキンス) に続く章。

なぜこの歌をここで取り上げるかというと、この歌が好きだから。そして、この歌が言っていることは、人間の社会で起きる諸々の出来事に通じていくものだと思うから。
ではあるけれど、前章でリンクを貼ったリチャード・ドーキンスの "Militant atheism" と題されたヴィデオ、あれの YouTube 上のもので言えば 3:40~, そこでこのフレーズ、つまり
Teach your children
が出てくるのだ。まぁあそこでは冒頭で "If you" が省略されているような文脈で使われていて、この歌の中の Teach your children は堅苦しく文法に言及するなら「命令文」の形を取ったものなので、このフレーズが使われたという共通項を持ち出すのはかなりの強引な話、我田引水・牽強付会「の・ようなもの」(というのは 1981年公開の日本映画のタイトルなんだけど、「のようなもの」と言いたい時につい引っ張ってきてしまうというただのクセ!)。
さて、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング, 1970年リリースの「ティーチ・ユア・チルドレン」。作詞作曲はグラハム・ナッシュ。歌詞は筆者が 2021年3月8日に和訳した。

Teach Your Children 〜 from Crosby, Stills, Nash & Young 1970 album "Déjà Vu", and recored live & included on their 1971 live album "4 Way Street"(*1), and (studio version) played in a 1971 film "Melody" starring Tracy Hyde and Mark Lester(*2)

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

..............................

この世界でいま歩みを進めている君たちには
これで生きていくんだという道標が必要に違いない
だからこそ誰でもない 自分自身になることさ
なぜって 過去はいつも過ぎ去っていくものだからね

子供たちにはよく教えてあげることだ
父親たちの苦悩が ゆっくりと消えていったことを
子供たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
子供たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

感じやすい年頃の君たちは (聞くことができるかい, 気に掛けてるかい)
でもまだ恐れというものを知らない (分かるかい)
年嵩のいった人たちは その恐れによって大人になったんだ (僕らは自由でなくちゃいけない)
だから 君らは助けてあげてほしい (君の子供たちに教えるんだ)
その若い力で彼らをね (君が信じることを)
彼らは真理を探し求めてるんだ (世界を作るんだ)
死ぬその時まで (僕らが生きることができる世界を)

親たちにはよく教えてあげることだ
子供たちの苦悩が ゆっくりと消えていくことを
親たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
親たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

*1

*2

*3

*4 歌詞の解説めいたことと、世界の子供たちの写真と映画と。

*5 シンプルに .. 歌詞和訳。

*6 これ、前に載せてるじゃん。

*7 どうして突然これを?(笑)

*8 というわけで、その他、自前の「洋楽」和訳歌詞を載せたりリンクさせたりした note投稿のマガジンは .. (宣伝だ!)

長い長い note でありました 〜 "Long Train Running" by The Doobie Brothers ♫

Long Train Runnin' 〜 from The Doobie Brothers' 1973 album "The Captain and Me"

この LIVE 最高 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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