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「素」から考えるわれわれの自己評価

「ちゃんと素を出してるんか?」

先日、6年来の友人からこんなメッセージが来ました。

もともと、私は変にプライドが高く、余裕がない自分を見せたくないと思う上、心身ともに割と頑丈にできているとの自負から、心からの疲弊や焦り、辛さは出さないタイプ。

苦楽を共に過ごしてきたためか、そんな性格も彼は知っており、海外で生活している私を心配してくれたのでしょう。

「自分で決めた道とはいえ、精神的なしんどさは避けられへん。たまには逃げることも重要とだけ言っておく」

あぁ。

言われて初めて、実は心の片隅で欲しがっていた言葉だったと気づきました。過去にも私は彼に救われており、また一つ借りができちゃいました。

「ありがとう」や「助かった」は恩着せがましいと言われてしまうので、こっそりと何かの形で恩返しをしなくては。


さて、冒頭で出てきた「素」

よくわれわれは言います。

「素が出えへんねん」と悩む声が聞こえたり、「素のままでええやん」と相手にアドバイスしたり。

一方、英国ではこういうフレーズはあまり聞かれません。少なくとも私のスコットランド大学院時代とロンドン生活においては(友達が少ないから、サンプル数が足りない説もぬぐえませんが……)


われわれが普段口に出す「素」の定義・認識としては

「ありのまま」や「背伸びをしていない」のようなニュアンスといったところ。

こうした言葉が人々が頻繁にかけ合っている理由は、われわれが素を出せていないと見なされているから。

つまり、ありのままではなく、偽りの自分を他人に見せているとの共通認識があるからでしょう。素を見せていないことが前提になっている印象があります。

(見せてなかろうが見せてようが、相手は勝手に「人は素を見せていないんや」と認識していることも多いと思われてそう)

日本人の間で、私たちはこういう特性・キャラクター・イメージを持っているものと、意識的もしくは無意識的に持っていて(これが前提)

じゃあ日本人てどんな性格?

こっちに住んでいて一番感じたのは

「謙遜する」です。

他にも日本人の性格(もちろん個々人に差はあるし当てはまらない場合もあるのは重々承知しています)はたくさんあります。

しかしこっちの友達に

日本人てどう思う〜?て何気なく聞いたときに

「よく会釈するよね」とか「褒めても否定するよね」とか「自信が無さそうに見える」とか言われたこともあります

(注意!いっぱい良いところも言われるけど、今回はこの内容にあったものを抜粋しているよ!)

ふむ、では

日本人=謙遜する、と仮定してみます

じゃあなんで謙遜するんやろか?

この話を冒頭の友達とひったすら議論しました(ラインで長文を打つ愚行。電話しろ、て話)

紆余曲折を経て

その理由は「自己評価が低いから」という結論に至りました。

彼の自論では、

日本人は客観的に自己を評価できない(自己分析できないと同義)。だから、あえて低く評価し、他者による評価を求める。

人間はまず自分が可愛い生き物で、日本人は低く設定した自己評価を上回る評価を他人からされたときに、表面上は自分の評価が他者による評価を下回っているから「そんなことない」と思おうとする(=謙遜する)けど、心の中ではそのギャップが嬉しい。

らしい。なかなか興味深い


自己評価ができない原因は教育にあると考えています。

日本の教育制度は画一的。

小学校をみると、みんな一様な評価で、突出してできる子、できない子の差を出さないようにしている。「みんなよく頑張りましたね」。「みんなが一番です」。

小学校のあゆみ(通信簿?成績表)を見ても曖昧な評価しかない。

よくできました。

できました。

もう少し頑張りましょう。

みんなよくできたという評価しかしないから、自分は他人と違ってどう良いのか?何が得意で何が不得意かすら小学校ではわからない。

高校になると模試やセンター、中間・期末試験などで学術的な意味での順位や数字評価はされて、科目の得意・不得意はわかってくるけど、自分はどういう人間なのかというのはやっぱりわからない。

かつ、自我や自己形成は大体小学校〜中学にかけて行われると言われている中、上で書いた教育制度が小学校でされている。「みんな一緒」の雰囲気や環境の中で6年間生活していたら、他者と比べて自分はどう違うのか、ということを考えないまま大人になり、自己評価ができない人間になる。

「出る杭は打たれる」というおっそろしい諺の存在も日本のこうしたノームを如実に表しているよね。

そこで、就活で初めて自己分析をする。これが一番大変、ていう声はよく聞く。

自分がどんな人間なんだろう?何をしてきたんやろうか?と22~23歳になってようやく自分と対峙するからです。

個人個人ではなく、教育システムに起因するし、さらにいえば日本がもともと集落で、農耕民族として他人と協力する必要があったため、争いを起こさないようにしてきた慣習に基づく。

その文化から生まれた「和」はとても誇らしい文化でもある。他国と比べて日本は争いは少ないし、治安も良い、いざこざもない。これは本当に日本らしい面で、私は誇りに思う。

パスポートが最強なのもきっとそういうところに立ち返ってくるんだと思う。


で、

自己評価ができないんです、て話に戻ってくるんだけど、

イギリスの教育をみると、

一人一人の評価をきちんとする。よくできた子は飛び級だってするし、できない子は、できる分野を伸ばそうとする。

それこそ「みんな違ってみんないい」

なんです。

できるところを伸ばせばいい。それを極めればいい。

小さい頃からそういう評価をしてもらえるから、自分はAちゃんとこういうところで違っている、Bくんはこれができるけど自分はできない、というように客観的に自分を差別化でき、評価できる。

就活でも自分をしっかりアピールしています。

自分はこういう人間で、だからこうの分野が得意で、この学部に入った。この学部のこういうスキルが御社で役に立つから、この会社を志望したし、自分はここにふさわしい人材だと、理路整然と説明できるわけです。

私はこちらの方が得意だったりする。

すごく明確だから。

日本の就活はつまずいたけど、こちらは縁が大半を占めているけれど、すごく面接がやりやすかったし、楽しかった。履歴書書くのも迷わなかった。


「出る杭は打たれる」なのか、当時は目立つ存在でいじめられたこともあった苦い経験もあり、周りと違うことをしていたり思考回路も違っていたんです、今思えば。

日本の教育制度で育った私たちは、ゆえに自己評価が下手くそなのです。等身大の自分をきちんと見えない。だから、過大評価をして実際の自分と違うのに傷つきたきないから過小評価する(そのマインドになるのは自分が可愛いから)

過小評価して、他者にそれを上回る評価をしてもらえば、自尊心は傷つかないから。

先にも書いたけど、

表面上は過小評価している体裁なので、へりくだるのです。これが謙遜になると私は考えます。

こんな話をラインで永遠していたわけです。

時差もあるのに、よう続いたな。


私たちが勝手に盛り上がった内容を共有してみました。








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