
Jリーグとナベツネ
2011年11月、読売巨人球団代表の清武英利は、球団会長であり読売新聞社会長の渡邉恒雄が、内部統制やコンプライアンスを破ったことについて告発会見を行った。なにより衝撃的だったのは、告発の相手があのナベツネだったことだ。世界一の発行部数を誇る読売新聞の会長兼主筆であり、日本テレビを含む読売グループのドン。日本のメディア王であると同時に、中曽根康弘元首相の盟友で、政界を動かすとも言われる男に戦いを挑んだわけだ。そして、清武はあっさりと役職を解任された。騒動は裁判に発展したが、清武の読売グループへの復帰は絶望的だ。
数々の権力闘争を勝ち抜いて上り詰めたナベツネにとっては、今回の件は大した問題ではないだろう。だが、そんな彼も敗北を喫したことがある。それが1991年から数年間に渡り行われた、日本サッカーのプロ化における権力闘争だ。改めてその経緯を振り返ることで、なぜ清武の反乱が起きたのか、引いては日本のプロスポーツが抱える問題点が見えてくるはずだ。
1991年、日本サッカー協会が計画を進めていた日本サッカーリーグのプロ化に、ナベツネが待ったをかけた。強豪読売サッカークラブを抱えるナベツネは、「新リーグ結成だ」とJリーグへの参加を拒否することを宣言。槍玉に上がったのがプロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎。元日本代表監督であり、後にマスコミからナベツネ同様「独裁者」とあだ名されるほど我の強い男だ。天下のナベツネに、川淵も強気な姿勢で「どうぞご勝手に」と返答。この二人の対立をマスコミはこぞって取り上げた。
そもそも読売クラブは、元読売新聞社社主・正力松太郎によってプロ化を目的として作られたチームだった。創立は1969年。当時は巨人が、1965年から始まったV9時代の真っ最中。1964年の東京オリンピックの影響でカラーテレビが急速に普及しており、巨人の人気はうなぎ登りだった。64年は関東ブロック紙でしかなかった読売新聞が九州進出を始めた年でもあり、巨人の人気が読売新聞の販売促進ツールとして大きく貢献したのは間違いない。正力は巨人に続く将来的な販促ツールとして、読売クラブを設立。1969年死去した正力にとっては、最後の大仕事となった。
正力が待望していた日本サッカーのプロ化に、なぜナベツネは反対したのか。正確にいえばプロ化への反対ではなく、日本サッカー協会が主導で行うプロ化への反対だ。読売クラブの成り立ちゆえに、ナベツネには日本サッカー協会のプロ化の方針に容認できないところがあった。大きく分けると要点は二つ。プロ化にあたって「チーム名から企業の名前を外すこと」と、「テレビ放映権を始めとする諸権利をリーグが一括管理すること」だ。川淵が理想としたのは欧州型のリーグ運営。対してナベツネが理想としたのは日本プロ野球型、つまり巨人型のリーグ運営。言いかえると「地域密着スポーツ」と「企業スポーツ」の対立になる。
なぜ川淵はチーム名から企業の名前を外そうとしたのだろうか。実は世界的に見て、プロリーグに企業名を冠するチームは日本と韓国以外にはほとんどない。早稲田大学スポーツ科学学術院教授の原田宗彦によれば、「企業がトップ選手やトップチームを所有し、社員の帰属意識を高め、企業の広告塔として活用するのは、ともに儒教文化経営の影響を受ける韓国を除けば日本でしか見られない現象である」(『日経新聞』2006年5月4日)という。川淵は欧米のプロスポーツに習い、親会社に頼らない独立採算のチームによる地域密着スポーツのリーグ運営をするために、各チームに「地域名+愛称」を名乗るように求めたのだ。
それでも日本でのプロ野球の成功を考えれば、わざわざ欧州を真似ずとも親会社からの支援を受けやすい企業スポーツとしてのプロサッカーでも良かったはず。しかし川淵が脱企業スポーツにこだわったのにはいくつかの理由がある。まず、企業スポーツは親会社の経営に左右されてしまうことだ。仮に親会社が赤字の場合、株主に対して企業努力を見せるため、目立つ存在であるスポーツ事業を縮小することが格好のアピール材料になるのだ。実際、1990年以降に300以上の実業団チームが廃部に追い込まれている。現在、経済において明るい展望が見えない日本社会にとって企業スポーツが成り立ちづらいのは間違いない。
また、企業スポーツはプロチームが親会社である以上、経営は親会社から出向してきた人間により行われることになる。いってみれば素人がプロスポーツチームを運営するわけだ。例えばメジャーリーグでは、経営を担当する社長、戦力補強や年俸交渉等を行うゼネラルマネジャー、そして監督と、それぞれ役割が分けられそれを専門家が担っている。どちらがチームの強化をはかれるかは一目瞭然だ。
近年メジャーリーグにならい、ようやくプロ野球も総監督や球団代表の名でゼネラルマネジャー的役割の導入を試みるようになったが、結局企業スポーツであるプロ野球にはあまり浸透していない。冒頭の清武騒動がまさにそう。メジャーリーグにおけるゼネラルマネジャーの役割が球団代表であるならば、ナベツネが現場の人事に口を出すことは許される行為ではない。清武の怒りも無理もないが、そもそも清武自身が親会社からの出向でしかなかったところに、企業スポーツの根深い問題が見て取れる。
さて、もう一つの対立の要因が「テレビ放映権を始めとする諸権利のリーグ一括管理」。特に放映権の問題だ。Jリーグにおいて放映権の販売はリーグが一括して行い、放映権料はチームに平等に分配している。全チームの戦力均衡を目的とし、多少の差はあるが、欧米のほとんどのプロスポーツも同様の管理方法を採用している。集客が不利になる中小都市のチームにも平等に分配することで、地方でのチーム運営をしやすくする仕組みだ。地域密着のためであると同時に、ある特定のチームに強い権限を持たせないことにもなる。
巨人の圧倒的人気を背景にしてプロ野球界に君臨しているナベツネにとっては、これもまた受け入れがたかった。1990年代の巨人戦視聴率は常に20%を超えの状態。同じ読売グループである日本テレビに放映権を売り、日本テレビも高視聴率で広告収入を得るビジネスモデルが確立され、1994年の読売新聞1000万部達成にも巨人が大きく貢献したのは間違いない。ヴェルディ川崎を第二の巨人にしようと考えれば、放映権を欲しがるのも当然のこと。実際にヴェルディは、Jリーグ開幕当初、ラモス瑠偉、三浦知良、ビスマルク、北澤豪などの高年俸の名選手を大量に抱え、2年連続でリーグ制覇を果たし、数々のタイトルを総なめにした。ヴェルディの選手は連日日本テレビに出演し、次々にスターを創り上げていった。まさにヴェルディの巨人化だ。
ナベツネはこの放映権のリーグ一括管理というやり方を、どのように捉えていたのか。ナベツネは自著や論文などでは、何故かJリーグにほとんど言及していない。しかし04年の文藝春秋に掲載されたプロ野球改革についての論文で、プロ野球放映権のリーグ一括管理案に以下のように反対している。
「巨人軍の地上波放映権料を全額収奪して、これを各球団に再分配せよ、という主張などは、スターリン・毛沢東体制下の社会主義統制経済をとる独裁国家ならともかく、日本では市場経済の完全な否定であり、独禁法違反になる競争制限であり、かつ憲法の定める財産権の否定にもなろう」(『文藝春秋』2004年12月号。『わが人生記』中公新書ラクレに現在は収録)
Jリーグ開幕当時、ナベツネが川淵を指して「一人の独裁者が、空疎で抽象的な理念を掲げていてはスポーツは育たない」と発言し、放映権に関しても「憲法違反だ!」と発言していることから、この文章にほとばしる怒りの何割かは川淵へのあてつけも含まれていそうだ。
とはいえ、ナベツネの希望が叶わないまま1993年に開幕したJリーグ。世の中はJリーグバブルに沸いたが、川淵のいう地域密着スポーツの理念が実現するかはまだ不透明だった。そのバブルに最も貢献したのがヴェルディの人気だったからだ。
「テレビ局の要望ははカズ、ラモスらスターぞろいで華があるヴェルディに集中した。そういうテレビ局の要求を聞いているとサッカー中継の大部分がヴェルディの試合になる。それで抑えに抑えたのだが、それでも半分ぐらいがヴェルディの放映だった」(川淵三郎『「J」の履歴書』日本経済新聞出版社)
その状況に対して川淵は、「『こりゃ参ったな』と思わないではなかった」(同)と振り返っている。仮にヴェルディが巨人のような圧倒的人気を維持できていれば、現在のJリーグの形は変えられていたかもしれない。しかし、ヴェルディはあっという間に行き詰まることになる。
熱しやすく冷めやすいのが日本人。一見スタジアムがいっぱいでも、「おらが町のチームを応援する」という川淵が掲げた地域密着の理念が浸透していたわけではなかった。詰めかけていた観客も開幕から3~4年で激減し、Jリーグバブルは崩壊した。また、脱企業スポーツも浸透していなかった。1997年、ヴェルディはそんな状況下にもかかわらず、当時国民的人気のあった前園真聖を過去最高の移籍金で獲得するなど、多額の金を使ってスター選手を集め続けた。その結果、翌年には累積赤字が26億5000万円にまで達してしまう。
累積赤字が深刻化していたのはヴェルディだけではなく、大量の資金でスター選手を集めようとしていたチームはことごとく経営難に陥った。1998年に横浜フリューゲルスのスポンサーであった佐藤工業と全日空が撤退。横浜マリノスと合併することが決定した。このニュースを受けてナベツネはさらに川淵批判を繰り返した。
「川淵チェアマンが辞めない限り、Jリーグは滅びる」「Jリーグの再編なんて甘いもんじゃない。解体だ」(『AERA』 1998年11月16日)
同年、読売新聞もヴェルディから撤退し、日本テレビの全額出資となった。プロスポーツを「文化的公共財」と言っているナベツネが、あっさりヴェルディを見限ったのはあまりにも子供じみている。しかしこの時点で見れば、ナベツネがいうようにプロ野球的企業スポーツ経営が正しく、Jリーグの地域密着は空疎な理念でしかなかったようにも見える。ところがプロ野球に2004年に大きな変化が訪れる。プロ野球の再編問題が起きたのだ。
前述したように企業スポーツは親会社の経営状態に左右されやすい。長年赤字を続けてきた近鉄が経営に行き詰まり、オリックスと合併。仙台に東北楽天ゴールデンイーグルスが新設された。ダイエーも本体の経営難でソフトバンクが買い取ることになった。神戸と大阪という間近にあった球団がひとつになり、東北に新しいチームが誕生。さらに日本ハムがフランチャイズを北海道に移し、各チームの地域が分散されることになった。そして古くから凝り固まったパ・リーグ球団にとって、ふたつのIT企業が入ったことは大きな変化をもたらした。特に楽天は長年赤字経営が続いてきたパ・リーグ球団にもかかわらず、初年度にして黒字を達成したのだ。
楽天が与えたインパクトはパ・リーグ各球団に希望をもたらせたに違いない。なにせここ数十年黒字を実現したパ・リーグ球団はなかったのだ。2004年を皮切りにパ・リーグの各球団は経営努力をし始める。フランチャイズが全国に分散し、お互いの権益を侵害しなくなったことで地域密着の営業戦略に力を入れるようになった。
例えば、「西武ライオンズ」が「埼玉西武ライオンズ」に名称変更したように、現在のパ・リーグの6球団は名称に地域名を入れるようになったのはこの時期。2007年には、6球団でパシフィック・リーグマーケティングを設立し、共同プロモーションやIT企業の強みを生かしたインターネット配信などを開始。年々パ・リーグ入場客数は増加している。まだ赤字解消には至っていないが、親会社の経営状況によっては球団が消滅しかねないことに対する危機感で、親会社依存をやめ黒字化に動き出したのは大きな一歩だ。福岡ソフトバンクが優勝した2011年の日本シリーズで、北部九州地区の視聴率が瞬間最高62.6%を記録したことは、地域密着戦略の一つの結実といえるだろう。
逆に巨人戦の視聴率は低下の一途を辿っている。高額な放映権料がネックになり、ついにはお膝元の日テレにも見切りを付けられ、2011年のホームゲーム中継は22試合に留まった。ゴールデンタイムに放送されたのはたった7試合。ソフトバンクが福岡で成功したように、パ・リーグの各球団は格安で地方局に放映権を売ることでファンの拡大を行なっているが、巨人のフランチャイズである東京には地方局がないため地上波の放送ができないのだ。このまま放送試合数が減り視聴機会がなくなれば新規ファン獲得のチャンスを失ってしまう。身内で揉めている場合ではないのにお家騒動がおきてしまい、それがソフトバンクが地域密着戦略として結果を出した日本シリーズとほぼ同時に行われていたのはなんとも皮肉な話だ。
さて、読売新聞から切り離されたヴェルディはその後どうなったのか。1993年――つまりJリーグ開幕の年に話を戻す。ヴェルディ川崎が初代王者になったその年の12月、ナベツネは読売新聞府中工場の竣工式で「別館の地域をヴェルディの本拠地としたい。近い将来ヴェルディ東京と呼ばれるようにしたい」と発言。元々ヴェルディの巨人化を目論んでいたナベツネは、日本の中心東京にこそヴェルディを置くべきと考えていた。しかしこれを聞いてヴェルディの支援をしていた川崎市は激怒。川崎市民による読売新聞不買運動まで起きてしまった。結局。日本テレビの経営になったヴェルディは、2001年に川崎へ後足で砂をかけるように東京に移転した。
新設された東京スタジアム(現・味の素スタジアム)をホームにしたものの、そこにはすでにFC東京があった。ヴェルディの川崎市への対応は散々マスコミで報道されており、ヴェルディは東京でもファンの獲得に苦戦する。また、企業スポーツとしての体質も抜けなかった。以下は、2009年にヴェルディの社長に就任した小湊義房のインタビューからの引用だ。
「[私は]ディフェンスが弱いだの、あのシュートはなんだというようなことは現場の責任者に言わない。前任者[2004年~08年の間、社長を務めた萩原敏雄]は熱心のあまりそれをやってしまい、選手の補強も金に糸目をつけず敢行した」(『サッカー批評』43,[]内の補足は筆者による)
日本テレビから出向してきた萩原が社長在籍時に、二度にわたり J2へ降格。その上財政状況が悪化し、2008年に日本テレビが赤字転落したことで経営権譲渡に動き出す。萩原は、退任後の会見で「チーム名に企業の名前を入れることを認めるべき。そうなれば、うちも売却先が決まるのに」(『サンケイスポーツ』2009年4月4日)と発言。2009年、ついに読売グループはサッカーチーム運営から完全に手を引くことになった。結局、“読売”ヴェルディは最後まで地域密着スポーツとして成り立つことはなかったのだ。
2011年3月11日、未曾有の大地震、大津波、そして原発事故が日本を襲った。スポーツ界への影響も大きく、すでに開幕していたJリーグは中断を決定。プロ野球のパ・リーグも、3月25日の開幕を4月12日に延期することを発表した。にもかかわらず、セ・リーグは3月25日開幕を強行しようとした。25日開催を強く推したのはやはり巨人だ。ナベツネはパ・リーグが開幕延期を決めたことに対して、「勝手にしろ」と言い放った。電力供給不足で節電が呼びかけられる中、大量の電力を消費する東京ドームで試合をすることは、常識はずれとしかいいようがない。ましてや被災地にはまだ電気も通っていなかったのだ。
最終的に世論の反発や文部科学大臣の要請により、セ・リーグも4月12日開幕を決定したが、この一件に企業スポーツの問題点が集約されている。ある特定の人間が強い権限を持ち、その権力によって自己の利益を優先した決定を下す。ファンや選手の感情は置き去りにされたままだ。その結果、2011年9月には巨人主催試合で史上最低の観客動員を記録。2012年は、日本テレビが地上波中継を更に一試合減らすことが決定した。ナベツネがこのまま企業スポーツへ執着するなら、本当の意味での敗北はこの先に待っている。その時を見届けるまで、ナベツネが長生きしてくれることを心から祈ろう。
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