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恥ずかしくて見てられない!共感性羞恥心って話。

数年に一度、流行がやってきて盛り上がるワードがある。四年に一度のオリンピックなど定期的なイベントや、〇〇メン、のような世相を象徴するような名称もあり、そして「共感性羞恥心」もおそらくそんな定期的な流行を見せるワードだと思う。

共感性羞恥心とは文字通り、共感によって発生する羞恥心、つまり、「恥ずかしくて見てられない」とのことらしい。

他人が恥ずかしいと感じる状態になっているのを見て、
もし自分だったら耐えられない、恥ずかしい、これ以上視線を向けられない、と感じる。

この感情にそんな大げさな名前が付いていると知ったのは10年ほど前だった気がする。

驚いた。

名前、あるんだ。

そんな名前など付ける必要がないほど当たり前で誰もが同じことを感じていると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。この、「誰もが感じるわけじゃない」というところがなかなか面白い。

この共感性羞恥心は、2016年にも『マツコ有吉の怒り新党』という番組で取り上げられて話題となり、現在は『うっせえわ』という楽曲にまつわって少しにぎわっている。

最近個人的には、千鳥の「相席食堂」という番組が、共感性羞恥心のカタマリのような内容に見えている。この番組はちょっと変わっていて、いろんな芸能人のロケで起こるいろんなことを千鳥がスタジオで突っ込むという構成になっている。

ツッコミが入るということは、そのロケをしている人が何かやらかすということだ。やらかしたことにツッコミが入ることで笑いが生まれるという流れなのだが、僕の場合は「やらかしたのを見ること」で例の羞恥心が発動してしまい、なかなか番組を客観的に見ることができないことが多い。もちろん笑えることもあって、場面によりけりだけど。

概して、ロケ先で芸人が素人に無茶ぶりされてあっぷあっぷになっているのを見ると、それは発動することがおおい。そういう時は、見ていられないのでテレビを消してしまう。

まぁ共同体の中で生きるように進化してきた人間の脳と感情だから、共感性はあって当然だし、喜びや悲しみ、怒りなどは共感によって社会的なパワーになることもある。羞恥心はどうだろうか?よくわからないけれど、喜びなどほかの感情に比べて感じる度合いに個人差が多いのかもしれない。

個人差が大きいと、共感性羞恥心に対して「わかる!派」と「わからない!派」、それから「どちら派でもないが現象自体は理解できる層」ができやすい。
そしてこうした構図ができるものは、何かのきっかけで簡単にバズると思う。

だから、定期的に話題になるのかもね。

ムッスメの学芸会とか、見ていられるかな...!大問題だ!

んじゃね!

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