「無」の境地はいまだにわからない(住職の独り言_平成29年冬)

今、曹洞宗福岡県の役員を拝命している。

その為、年に数回、県内の総代や婦人部役員、梅花講の方々の研修に引率として全国各地へ旅をすることが多い。

高齢者が多いためか宿泊は温泉旅館と決まっている。

引率や研修は責任上大変だが温泉は楽しい。

必ず露天の朝風呂に入ることを欠かさない。

知らない人とも裸の付き合いができる。

「温泉は気持ちいいですね」と声を掛けられ「そうですね」と答える。

しかし、なぜ気持ちいいのか、心が癒されるのか。

多分、人間は母親の胎内で羊水に浸かっていた経験がそうさせるのだろうが、ほかにもあるような気がする。


露天の解放感。

湯気が朝日の光を和らげ、水音が鳥のさえずりと調和する。

そのような中、自分の頭の中は何も考えていない。

「無」の境地なのか。

肩書も立場も無く生まれたままの姿で大自然の一部として自分が存在する時間。

至福の時である。

仕事に追われる毎日に少しの時間でもこのような気持ちになれることはないだろうか。


道元禅師は仏になるための座禅ではなく仏の座禅をしろと言われた。

仏の座禅とはこのようなことかもしれない。
  

お掃除地蔵を建立しお参りに来られる方々の心をお掃除したいと思います。賛同される方は浄財をお願いいたします。