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象のはな子と影のフィクサー

昭和24(1949)年9月4日

恩賜上野動物園にタイから一頭の象がやってきました。

その象の名前は「はな子」

平成13(2013)年、66歳で国内最高齢記録を更新し、井の頭自然文化園で平成28(2016)年5月26日(木)に永眠した象のはな子です。

時を同じくしてインドからやってきた象のインディラと共に、戦争に敗れ打ちひしがれていた多くの日本人に夢と元気を与えてくれた二頭の象。

インドから来たインディラは、

「象がほしいという」

という、台東区の子供たちの声に心を動かされたネール首相が送ってくれたことでも有名です。

では、はな子は誰が送ってくれたのでしょう?

多くの人は、タイ政府が送ってくれたと思っているかと思いますが、実は、はな子は、あるタイ人が私財を投じて送ってくれたのでした。

その人物の名前はソムアン・サラサス

晩年は、政変の裏側にフィクサーとして存在し、一部の政界通の間では、「伝説のクーデター・コンサルタント」として知られていた人物でした。

とはいっても、当時は現役を退いてまだ間もないタイ陸軍の一将校であった彼ですが、実は、日本にとって大恩ある人物なのでした。

したたかな微笑みの国 タイ

19世紀 東南アジア各国は、欧米列強により植民地にされていました。

周辺諸国、全てが植民地にされた中でタイ国のラーマ4世、5世は近代化を推し進めると共に、したたかな外交戦術でタイの植民地化を狙うフランスとイギリスの双方の影響力を拮抗させ植民地化を阻止しました。

そのしたたかさは第二次大戦でもいかんなく発揮。

日中戦争の泥沼化から、アメリカと喧嘩状態になったり色々あって日本は仏領インドシナ南部に進駐。

この状況下でタイは、英仏、日本と等距離外交で当初中立を保とうとしましたが、日本が米英に対して開戦

そして、緒戦での日本軍の躍進状態を見るやタイは同盟を結び枢軸国の一員になり、英米、中国に宣戦布告。

積極的に日本に協力しつつ、その力を利用し旧領の失地回復に努めました。

ところが、ミッドウェイ以降、旗色が悪くなるとみるや、今度は日本と距離をおきながら連合軍に協力する抗日組織を黙認するなどし、巧妙に立ち回り、戦後、敗戦国になることを避けたのでした。

そんなわけで、多くのタイ人が日本に対し日本軍に面従腹背を決め込んでいたのですが、その中でソムア氏は心から日本との連帯を希求していたのでした。

幼稚園からフランスで学びソルボンヌ大学を卒業した氏は、そこで白人からの差別とかを経験し、その後、政変で国を追われた父プラ・サラサス・ポラカン元経済大臣と共に日本に亡命し、その時に武士道や日本特有の精神文化に尋常ならざる影響を受け、

『その2つの体験から文明の本質について考える体験を重ね、欧米の植民地主義という時代のパラダイムを打ち砕き、物質的ではない、精神文明圏を開闢しようとする執念の所産であったかも知れない。』

という考えから日本との連帯を希求したらしいです。

↓こちらのサイトから引用
※http://kuruzou.zero-yen.com/somvang_bkk.htm、

ちなみに、真空投げの三船十段の愛弟子となり、講道館柔道八段。空手は九段の腕前で、吉田松陰の信奉者でもあり、ソルボンヌ大学時代は、フェンシングの中でもフルーレやサーブルより激烈なエペを習得し、大学の試合では並みいるフランス人剣士を総なめにしていたそうです。そして、同氏は詩人でもあったそうです。

さて、戦時中は日本軍は、「マレー・シンガポール攻略戦」タイ領内のラノン県の対岸側の英空軍の一大策源地、ビクトリア・ポイントを攻略しようとしました。

が、その時にタイ政府に通達しなかったために、ラノン県を守備する警察軍と山下軍分遣隊のあいだで大規模な武力衝突が発生し同盟が瓦解しかねない事態になりました。

この時に瓦解の危機を回避するために動いたのが当時、情報士官であったソムアン大尉だったのでした。

彼は日本との同盟関係維持のため、バンコク駐留軍司令官、中村明人中将と相計り、当時サイゴンにあった南方軍総司令官、寺内寿一元帥の名を”騙り”停戦命令を発令し、差し迫った危機を鮮やかに解決してしたのでした。

そして、終戦時に父親のプラ・サラサス・ポラカン氏と共に日本に来日していた彼は、焦土と化し荒廃した日本の姿に涙を流し、日本に象と10tの米を送ってくれのでした。

そんな彼が、なぜ、戦後の日本にとって大恩人なのかというと、

戦時中に日本軍がタイ政府から借りていた20億バーツ(当時の換算で10億ドル以上)の返済を40分の1の2500万ドルにまで値引きに応じてくれたのです。

戦時中、ピブン政権下の国家予算は約2億バーツでしたから、この金額はいかに大きなものか分かると思います。事実、日本軍に20億を貸したためにタイは凄まじいインフレに陥ってしまいました。

昭和35年

ワンワイタヤコーン殿下率いるタイ国交渉団の最高顧問として来日したサラサス氏は、当時の事を次のように語っています。

「日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか」

と言いましたよ。

だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。

「国に帰ったら、殺されるかな」

とフッと思った。けれど、

「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから」と自分に言い聞かせました。

そして、渉団の団長であるワンワイタヤコーン殿下の代わりに全ての泥を浴びる覚悟で値引きを承諾したのでした。

その結果、彼は帰国後、売国奴のそしりをうけたのですが

「…あと数年。東京オリンピックを転機として、日本は爆発的な経済成長の時代を迎えるだろう。だが、いまここで額面を曲げず、なけなしのカネを毟り取ってしまったら、あと20年は低迷を続けるだろう。日本の発展はタイの国益に合致していく・・・妥協は間尺に合う」

彼がこう分析したとおり、この後高度経済成長に日本は突入、戦後復興を果たした日本からタイへ莫大な投資が行われるのでした。

壮年の頃は、前述したとおり影のフィクサーとしても活躍した氏は 晩年は、実業家として過ごし、チャワリット陸軍大将(当時)の要請により、王立プロジェクトに参加して、赤貧に打ちひしがれた北東タイの開発に尽力したりしましたが、平成8(1996)年4月末に10年前から患っていた癌のために逝去。

享年84歳でこの世を去りました。

氏を師匠と呼ぶ人は彼をこう例えました。

「ソムアン・サラサスは、生まれこそタイランドだが、正真正銘のサムライだった。」

日本を愛し日タイ友好のために尽力してくたれ1人のタイ人がいた事を知っておいてほしいと思います。

「日本は敗れはしたが、アジアのプライドをかき立てた。戦争が始まったとき、日本は負けるという不安もあったがタイは日本についた。私は、日本が負けても、英米に対してアジアもこれだけのことができるという証明になると友達と話した」


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参考資料・サイト

椅子は硬いほうがいい
http://fukunan-blog.cocolog-nifty.com/fukunanblog/2013/07/hard-nosed-thai.html

師匠ソムアン・サラサスのこと
http://kuruzou.zero-yen.com/somvang.htm

日タイの歴史を動かした親日家 象のはな子の育て親、逝く 
http://kuruzou.zero-yen.com/somvang_bkk.htm


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