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母が飛躍した時

 ぼくたち兄弟は、岩手県のおじいちゃん・おばあちゃんの家で史上最高の夏休みを満喫した。前まででも書いたが、別に元々田舎が岩手県なわけではない。おじいちゃんの会社が倒産してしまい、夜逃げ同然で逃れた先が東北の地だったのだ。でも、そんな悲しいいきさつなど全く関係なく、とにかく楽しかった。
 そして母親も、約1ヶ月間に及ぶ中国天山山脈登山隊への参加を終え、帰国した。これまで家庭の世界しかほぼ知らなかった母親が、外の世界で、また異国の地で、触れたもの経験したものはとても得難いものであったようだ。一生懸命に生きる人々の姿、おおらかさ、そして学生たちの打ち込む姿に、母親は強く心を打たれた。

 その後母親は、一つ一つの機会をものにして、自分の世界を広げていくことになる。

 まずは、小学校のPTAで、よくある地獄みたいな委員決め会議で、広報委員長に立候補する。別に何かやりたかったわけではない。その委員選出会議があまりにもお通夜のようなので、つい犠牲的精神を発揮してしまった、と当時の日記に書いてある。
 広報委員というのは、小学校の広報誌を作ったりするのが主な仕事である。母親は、障害児とその家族にスポットを当てた特集記事を作成した。当時は「養護学級」と呼んでいたが、そこに通う子とそのお母さんにかなり体当たりで取材し、当時としてはかなり等身大な記事を作成した。
 そうしたらなんと、その広報誌は首都圏の小学校広報誌コンクールで最優秀賞になってしまった。
 講評でも「読んでいて涙が出てきた」とあったようで、とても目線が当事者に近く、共感を呼ぶ内容であったようだ。この広報誌は今手元にはなくて、どのような内容かはわからないのだが、実際ご家族の方からも感謝され、周囲のお母さん方からも見方考え方が変わったという声を多くいただいたようである。

 日記にある内容だが、何度か私たちの家にそのお子さんとお母さんを呼んで、一緒に絵を描いてみようよとか、お話ししてみようよ、というインタビューの機会を作ったそうだ。
 その時、当初先方のお母さんは「あの子は学校が終わって解放されている時には絵は描かないと思う。それに家にあるお子さんのおもちゃなどを勝手に遊んでしまうから、迷惑をかけてしまう」と、うちに来ることをとても遠慮されていたという。
「絵なんか描けなくてもいいし、おもちゃ壊しても構わないから」と言って家に来てもらったところ、やっぱり家のおもちゃを手当たり次第にひっくり返して遊び出したのでお母さんは気が気でなく、また子供たち(ぼくや弟)が家に帰ってくると、怒ってしまうのではないかと思ってそのたびにビクッとしていたそうだ。「お母さんの気の使いようが大変なものだと思った」と書いている。私が思っているよりも、ずっと大変なことだった、と。
 そういう捉え方で作った記事だからこそ、目線が第三者的ではなく、訴えかけるものがあったのではないかと思う。以下は当時の日記からの抜粋である。

 「私が一年委員長を務めた学校の広報が、首都圏広報誌コンクールで最優秀になり、今日はその表彰式があった。小学校359校のうちの1位とは、ちょっと自分でも信じられなかったのだが、今日はその審査の講評を聞き、私が意図したことが、そのまま認められたことを知って、嬉しかった。
 この広報は養護学級の特集を組んだのだが、読んでくれた人たちが、障害児を持ったお母さんの話のことを言い、涙が出てしょうがなかったと言ってくれた。私が話を聞いたのをまとめたものだ。今日も審査委員の講評で「読んでいて涙が出てきた」ということだった。そして、全体的にセンスが良く、文章が魅力的だったと言われた。
 それにしても一等賞を取るということは、自分だけでなく多くの人が喜んでくれて、そして「おめでとう」と言ってくれるものなのだということを知り、運が良かったということもあるだろうけど、嬉しいものだ。今日もらったトロフィーと賞状はずっと学校に残り、みんなへの何らかの励ましになると思う。私の生涯で、初めての栄誉ある日だった」

 また、同じ時期に、「はまかぜ」という地域の新聞(タウン誌的なもの)に、先の中国遠征の旅行記を6回に分けて連載した。道ゆく人にも「はまかぜ、楽しみに読んでいるわよ」と言われたりしていたらしい。
 (モノの豊かさ)

 つまり、あるきっかけ以降、母親が外の世界に向けて様々な発信をし始めたのがこの時期ということになる。

 それにしても、自分が同じ世代(というより今の自分よりはるかに年下だが)になってみて思うのは、これほど次から次に何かをやろうとして、それでいて結果を出すというのは並大抵ではないなということだ。

 自分が会社勤めなどをしているから余計に思うのかもしれないが、やりたいことがあっても実行に移せなかったり、周囲に遠慮して引いてしまったりすることがほとんどではないかと思う。やりたいことを思いつくことも、実行に移すことも、結果を出すことも、これはすごい才能と運を持ち合わせていたんたと思う。

 実際、その広報誌の話だって、全部が全部その活動を応援されていた訳でもないだろう。PTAなんて、そこまで一生懸命やらなくても、面倒なことを言い出さないでほしい、という人だって多かっただろうし、障害者の家庭なんていうセンシティブな話題に首を突っ込むことに抵抗がある見方だってあったはずだ。少し先ほどエピソードを出した、家庭の親子を家に呼んでインタビューするいきさつを見ても、向こうのご家庭が遠慮されているのを「それでも来て話をして」というのは、学校内の親同士の会話としては、かなり踏み込んだものの言い方である。それでわかるように、ある程度は強く自分の意志を出して実行したのだろうと思う。そして、それができる人は本当に限られているということを、大人になった今痛感する。


 そして、次に母親が外に向かっていく行動は「仕事を始める」ということだった。これまで約10年間は家庭の主婦として過ごしてきたが、弟が小学校に入るこの年を契機に、自分の表現や行動の場をどんどん広げようと思っており、そのきっかけとして中国行きや広報誌の仕事、そして社会に出るということを進めようとしていた。それは結果的には身を結び、仕事でも大きな成果を残すことになる。

 ただ、皮肉なことに、母親が外に向けての活動を活発にしていくに従い、家庭ではすれ違いが増えていき、ここからわずか数年後。ついに家族は崩壊の日を迎える。そして、さらに重ねて皮肉なことは、この時母が仕事を始めていたので、その後も僕たち子供は経済的に何不自由なく成長することができたのだ。

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