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カルピスの甘さが残る記憶

大人になってから、この度久しぶりにカルピス(原液)を買った。この話は、わたしがかつて思い焦がれた、甘くてほろ苦いカルピス(原液)にまつわる話である。

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当時わたしの家は、特に裕福でも貧乏でもなく、まあ中流階級層に当たるような生活をしていた。両親とも教育関係の仕事をしていたこともあり、幼い頃は他の家庭よりは厳しく育てられていたように思う。お金に不自由な生活はしていなかったと記憶しているが、教育方針からなのかあまりお菓子など好きなものを買わせてもらえる環境ではなかった。

小学校に入って間もなくの頃は、母親に手を握られてスーパーに行くだけでも、とても胸がときめいた。母親がその日の食材を買いに行っている間に、わたしは一人お菓子エリアに行って、たとえ買ってもらえなくてもお菓子のパッケージを見てうっとりしていた。お菓子の棚には、色とりどりの鮮やかなパッケージが立ち並ぶ。

そんな中、特にわたしの目を引いたものがカルピス(原料)だった。白を基調としたパッケージ、青のラベルには可愛らしいフォントでカルピスと表記されている。わたしはそれまで飲んだことがなく存在を知らなかったのだが、無性に欲しくなってしまった。

母親にこれ欲しい!と懇願したところ、いつもはお菓子なんて買ってくれないのに、その時はなぜかそのままレジへと持って行ってくれた。

家に帰ると、早速母親にカルピスの飲み方を教えてもらった。原液を数滴垂らして、そこに水を適量注ぎ込む。美味しいカルピス飲料の出来上がり。口にしたときの、その甘美な甘さにわたしは酔いしれた。牛乳とも違う、ほんのりした甘味が口いっぱいに広がって、それだけで幸せな気持ちになった。

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それから月日が経ち、わたしは高校生になった。

登校日初日、中学から一緒に来た人たちがほとんどいない状況だった。馴染めるか大いに不安ではあったのだが、しばらく経つとそんな杞憂もすっかり忘れ、クラスの子たちとも打ち解けられるようになっていた。学校生活がそれなりに楽しくなってきて、半年くらい経ったある日。

当時、わたしはスクールバスで学校まで通っていた。その時、同じ方面から通っていた山中詩織という同学年の女の子がいた。学区が違うので、中学生の時はお互い存在を知らなかった。初めて見たときは、よく笑ってよく喋る女の子という印象くらいしかなかった。

スクールバスの中では話す機会がほとんどなかったのだが、ひょんなことから隣り合わせでバスの席に座る機会があった。そこから徐々に彼女と言葉を交わすようになった。たぶん、その頃からその子のことをけっこう気になっていたのだと思う。

今思えば、あれを青春と呼ぶのかもしれない。改めて言葉にするにはいい年をした大人になってしまったけれども。

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気づけば季節は回り、無事に2年生に昇級した。セミが求愛する季節を通り越して、街は秋の支度を始めた頃合いだった。

ある日の部活の終わり、いつものようにスクールバスに乗ると空いている席は彼女の隣だけ。わたしは仕方なく、といった体で彼女の隣の席に座った。彼女の隣に座るときは、思春期特有の照れ臭さが先行する。座った後は、いつものように他愛もない話をしていた。彼女の手元を何気なく見てみると、何か握っているようだった。その正体は、かつてわたしが思い焦がれたカルピス(原液)ではないか。

何のためにもっているのか、と尋ねると近々ある文化祭の催し物で使う予定だという。「もし時間あったら、うちのブースにも遊びに来てよ」

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10月下旬の文化祭当日、約束を果たすために彼女のクラスへ遊びに行った。教室の中はそれなりに繁盛しているようであった。

彼女のクラスでは、パンケーキとカルピスを提供していた。ほんのり甘いシロップのかかったパンケーキと、炭酸水の入ったカルピス。その組み合わせが意外だと思いながらも、一口食べてみると悪くないコンビネーションだった。

その時、彼女がやってきて「お、本当にきたのだね」とちょっと驚いた顔をして言う。そしてちょっといたずらっぽい顔をして、「これおまけ」と言って1カットした檸檬をきゅっと絞り、ミントを入れてくれた。口にしてみると、爽やかさと酸っぱさが口の中にふわりと広がった。

それ以来、カルピス(原液)はわたしの中でさらに特別な存在になった。

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文化祭が終わって、またいつもと変わらない日々がやってきた。例の如く、タイミングがあれば(若干照れながらも)彼女とは隣り合わせで座り、当たり障りのないことを話した。

ある日、彼女がペットボトルに入ったカルピスを飲んでいた。「なんか、ペットボトルで飲むと味気なくなるのよね」

その言葉がなんとなくわたしの中にある感情の琴線に触れた気がした。既に既製品として作られたカルピスは、彼女の言葉通りどことなく「作られた」ものがして原液のカルピスと比べるとそれほど美味しいものだとは思えなかった。

その言葉を聞いてからかもしれない。何となく、意識の片隅で彼女のことを考えるようになったのは。

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それから高校を卒業して数年経ったあと、何となく言葉にするタイミングを逸してしまった。

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大学生になって成人してから、彼女を含めた数人で一度だけ一緒にお酒を飲んだことがある。みんないい感じに出来上がっていて、楽しそうだった。

彼女はお酒が飲めなかった。そのときは友人の部屋での飲み会だったのだが、用意してあったソフトドリンクはお茶とカルピス。

彼女は何気なく、といった感じでわたしの元に近づいてきて「久しぶり」と言った。昔と変わらぬ微笑みを浮かべて。彼女が手元に持っていたコップの中に入っていたのは、カルピス。彼女は自分のコップとわたしのコップを突き合わせて、小さく「乾杯」と言葉を口にした。

「やっぱり、カルピスは自分で作るのがベストだね」

彼女はコップを軽く傾けると、いかにも甘ったるい、といった感じで飲み干した。

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その後も気が向けば会ったりはしていたが、気づけばお互いいい年になっていて彼女はいつの間にかわたしの知らない人と結婚をしていた。

今でも、カルピスはペットボトルではなく原液で1から作るのが好きだ。久しぶりにカルピスを原液で買って自分で作ってみて、当時のほろ苦い記憶がじわりと滲み出してくる。せっかくだから、檸檬とミントを入れてみることを思い立って冷蔵庫を漁ってみた。

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