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写真を読む夜:『アンリ・カルティエ=ブレッソン』

私にとってカメラは、スケッチ帳であり、直感と自発性を発揮する道具であり、視覚的に問いかけると同時に決断を下す、瞬間の導き手である。世界を「示す」ためには、ファインダーを通して切り取ったものに自分が当事者として関係していると感じなくてはならない。この態度には集中と、感受性と、幾何学のセンスが必要である。無駄のない表現に到達するために重要なのは、手段を簡略にすること、そして何よりも、己の存在を忘れることだ。
-カルティエ=ブレッソン(『アンリ・カルティエ=ブレッソン』より一部抜粋)

世界的にもスナップシューターとして有名なアンリ・カルティエ=ブレッソン。よく美術館などでもその写真を見かけることもあるし、企画展でも取り上げられることが多い。そして、日本のスナップ写真の大御所たちにも多大なる影響を与えた人として知られている。薄い冊子だが、たまたま図書館で見かけだので手に取って見た。

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本来の見方は、上下逆さまなのだけど、何となくこの見方で写真を捉えた方がよりシンプルでわかりやすくなると思った。確かこの写真自体は、恵比寿にある東京都写真美術館で大きく引き伸ばされた写真を見た気がする。この写真なんかは、本当に芸術的だと思っていて、よくもまあこんなにもドンピシャのタイミングで写真を撮ったな、と感心するばかり。やっぱり水面に写る影に、命の芽吹きを感じる。こんな写真を撮って見たいと思う。そしてこの写真は、カラーよりも間違いなく白黒だからこそ良さがわかる写真。

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かなりわかりにくい写真になってしまっているけど、この作品の中には子供が一人立っていてその子の顔のあどけなさというか、無防備な雰囲気が非常に自分の中で良いなあ、と思った写真。

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果物が散りばめられている。雑多な感じが好き。

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何だか顔が見えないのに、(というよりも見えないから?)やけに艶っぽさが強調されている気がする。見ているだけで何だかドキドキしてくる。想像力がかき立てられる。そういえば私の好きなJazzアルバムの一つにSony Clarkの『Cool Struttin'』というアルバムがあって、そのアルバムのジャケットがハイヒールを履いた女性の足だけが写っている。個人的にはすごくクールなジャケット写真(そして中身も非常にテンポが良くて良い)だと思っていて、カルティエブレッソンの写真と通ずるものがあるような気がする。顔をあえて見せないことによって、イメージが膨らんでいく。


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少年が瓶を持って誇らしげに歩いている。そしてそれだけだと全体の雰囲気が伝わらないのだけれど、後ろに違う女の子が二人いて、そうすることで全体のバランスがうまく取れているような気がする。女の子の表情ははっきり写っていなくて少しぼやけているのもかなりツボを抑えている。さすが。

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旧ソ連時代のシベリアらしい。この写真を見たときに、何だか3体のお地蔵さんが思い起こされて何だかおかしかった。


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壁に正面を向けている人は、何とはだか!でも右側にいる人たちは普通に服を着ている。何だろう、もしかしたら何かの罰で裸にされているのかも。何だか時代性を強く反映している写真のように感じた。


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この写真!上の人たちは身なりの良い人たちが何かスポーツを鑑賞しているように見えるけれど、したの人は上に人と対照的にひどくみすぼらしい格好をしている。まさに資本家とそれによって搾取される側、というのを表現しているような気がした。

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人、そして光の入り方が絶妙な形で配置されている。そこから何か物語が生まれるような、そんな始まりの予感を感じさせられた。

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他にも日本を写した写真など、面白い写真が散りばめられていて、白黒で情報量が限られるからこそその写真の持つ雰囲気だとか、メッセージ性だとか、もうアンリ・カルティエ=ブレッソンの目はカメラと同化しているのではないかというくらい自然。他の作品も、見てみたいなとうずうずした写真集でした。



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