「会読」を通して描く江戸思想史ー『江戸の読書会 会読の思想史』(前田勉/平凡社)について

とても面白く、興味深い。
書名に「読書会」とあるが、実際は副題にある「会読」、江戸時代の主に私塾や藩校で行われた授業形態及び読書方法である「会読」について書かれている。
「会読」とは、簡単に書くと、数人で同じ書物を読み、その内容や意味を論じ語り会うこと、もしくは翻訳することである。後者の代表的な例が、『解体新書』の翻訳作業である。

第一章では、そもそも江戸時代になぜに儒学が学ばれるようになったかが説明されている。そして、儒学の教授法には「素読」「講釈」「会読」という三つの方法があったことをあげ、さらに「会読」には、相互コミュニケーション性、対等性、結社性という三つの原理があったことを指摘している。そして、第二章から第四章で、会読がどの時点で創始されたのか、儒学だけでなく蘭学や国学という場にも広がっていったこと、儒学を学ぶ私塾や藩校での実態などを様々な文献を使い、たどっていく。
素読や講釈とは違い、会読の場合、その対等性によって、競争が行われ、個々人の実力が明らかになってしまう。それだけに、藩校などの場合、身分の違う武士の子弟が同じ場で学ぶので、対等性の確保がスムーズに行われなかった場合もあったようだ。また、自主的に行われる会読は「結社性」を伴いがちなため、藩によっては神経質になった場合が指摘されている。
そして、第五章では、幕末という時代の中で、それまでは学問教授法の一形式にすぎなかった会読が、その原理ゆえに時代を変革していく精神を培っていく場になったことがダイナミックに描かれる。さらに、「相互コミュニケーション性」は異なる考えに対する「寛容」、「対等性」は身分や男女にかかわらない人間の平等、「結社性」は思想・信条の自由、といった現代にも通じる部分をも持ち得た人々を生み出していったことを実例を挙げながら検証している。
そういう意味では、明治維新が当初持っていた「精神」を会読の「場」が先取りしていたという著者の主張は、充分に納得できるものだ。
ただ、第六章で描かれるように、近代国家成立を目指す明治政府が、実学を中心とした教育体制を整え、さらには立身出世主義が大勢をしめるにしたがい、現在も続く効率的な講義形式が盛んになり、会読という形式、そしてその精神は終焉を迎えている。

読了して改めて、現在においても、会読の原理には学ぶ点があり、古典的教養にも人間の人格と結び付くことによって開かれていく「可能性」がまだまだあることを強く感じている。

※単行本のほかに、平凡社ライブラリー版(末尾に「江戸期の漢文教育法の思想的可能性」が付されている)があり、こちらは電子書籍版もある。

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