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アートは「この作品、つまんね」と思った時が楽しい 〜ソール・ライター展を巡って

「この作品、いいね〜」と作品の前で心のなかでつぶやき、ポストカードや図録を買って、家に帰る。「あの展覧会、よかったよー」。

しばらくすると、観たときの印象はすっかり忘れてしまって、何年かあとにまた別の展覧会で同じ作品に出会って、思い出す。「そういえばこれ観たな。やっぱいいよね」。

僕も前はその繰り返しだった。

いい作品ばかりの展覧会でも、ふと足を止めて「この作品、つまんね」と思うことがある。こういう時、作家や作品についてより深く味わう、チャンスなんじゃないかと思っている。

「あれはいいと思ったのに、なんでこれはつまらないんだろう?」

その問いが、作品を見る、解像度を瞬時に上げる。「いいね」は掘り下げが難しい。色がいいね、構図がいいね、素材がいいね、タッチがいいね、で終わってしまう。どういいのか?言語化が難しい。

だからこそ、「つまんね」と思った作品と違いをつぶさに観ていくと、急に「いいね」がなぜいいのかを考え始めることになる。ああ楽しい。

そんな体験談として、1月9日に東京・渋谷のBunkamuraで始まった写真展「永遠のソール・ライター」を観た感想をメモ代わりに綴っておきたい。

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伝説になった写真家、ソール・ライター

写真家、ソール・ライター(1923-2013)はくせになる。わかりやすいのにそれだけじゃない、間口の広さと一筋縄じゃいかなさが、同居しているからだ。

写真そのものに大胆な意匠がある。広告ポスターのクリエイティブや、映画のワンカットのように何も考えず楽しめる。そして被写体はアメリカが国家として絶好調だったころのニューヨークの町並みだ。カッコよくないわけがない。

展覧会の図録も兼ねた書籍『永遠のソール・ライター』(2020年, 小学館)によれば、1923年生まれのライターは若い頃、画家を志した。その後写真に転向し、VogueやELLE、エスクァイアといったトップのファッション・カルチャー誌で活躍。2013年の没後、プリントされていない大量のフィルムが残された。ソール・ライター財団が作品の散逸を防ぐため、その整理にあたっている。

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未発表のカラー作品が観られる展覧会

書籍と同名の写真展「永遠のソール・ライター」では、財団が発掘した未発表のカラー作品も含まれるという。この展覧会で僕は、ネットで検索して出てくるような傑作ではない作品に触れた。そしてこの写真家をもっと好きになった。

モノクロ期、カラー移行初期、後期の3つに仮に分類すると、カラー移行初期の作品と、ニューヨーク以外の街で撮った写真や、ポートレートが、驚くほどつまらなかったのだ。

初期のモノクロの作品は、引きの構図と借景の表現が軸だ。ガラスの反射、まっすぐ平行線を描くニューヨークの町並み、都会の男女の衣服のひらひらした質感、人影。そうしたものをときに背景に、ときに前景につかう。主題の扱いは控えめで、都市の中に埋め込まれたものとして扱われている。

アップの構図の作品もあるが、モノクロのためまるで抽象画のようだ。色の表現が使えないので、ベタ塗りの影や、完全に飛んだ光の白を極端に表現している。

都市と人、有機物と無機物をセットに、等価に、平板に描いていくスタイルは、初期の1950年代にすでに確立されているように見えた。このスタイル自体は、生涯変わることはない。

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「つまんね」と思ったカラー時代初期

「つまんね」という直観。カラー時代の展示になると、グッと作品のもつパワーが落ちたように感じられた。

なぜか。カラー時代の初期は、モノクロとまったく同じ構図、被写体を撮っているものが多い。同じ構図、被写体で、色が加わるとどうなるか。写真を構成する要素としての色が増えた分、ぱっと見たときの作品の印象がボヤける。そこに何かをカットして何かを際立たせる、「編集」が欲しくなる。モノクロのときと同じ構図では、パワーが落ちる。

うーむこれはモノクロのときのほうがよかったなあ、などと思いながら、進んでいくとファッション誌での撮影をまとめたブースから、一気に作風が変わっていく。

カラー化で要素の整理が必要になる

なにが変わったのか。

メインの被写体が、かっちり決まったファッション誌向けの撮影を通じて、表現に強さが出てくるのだ。

アップのカットが格段に増えていくのだ。ファッション誌では、モデルを中心に据えて撮らなければいけない。結果的に、「カラーになって過剰気味だった要素」が整理されて、表現がシンプルで、洗練されたものになっていく。

モノクロ時代は、アップのカットは、あっさりとした抽象画のような印象だった。しかし、そこに色を得たことで、ファッションでいう「差し色」のような効果が出て、作品から受ける印象が力強い。

ここから、ライターの作風は、ライフワークの街撮りでも、絞り込まれたシンプルな色使いと構図を使った、意匠的、デザイン的な写真が多くなっていく。

試行錯誤の結果というよりかは、ライフワークの街撮りとは異なり、仕事としてやっていたモデルの撮影を通じて、カラーでの寄っていく構図の可能性を、意図せず切り拓いた可能性が高い。これは、さらに先へと進んでいくとはっきりする。

都市と匿名の人たちそして幾何学的なデザイン性

カラー移行初期の作品への「つまんね」という直観は、モノクロからカラーへの変化による、写真の要素の取捨選択にあるのではないか、というのがここまで。

しかし同時にもうひとつ、浮かんでくることがあった。「でもそんなのは細かいことで、本質的にはこの人、ぜんぜん変わってないよな」

人と街を異なるものではなく、融合したひとつの風景として撮っていく作風は変わらない。明るい傘の色も、信号の灯りも、建築物が作る影も、そこにいる人も、等価に、ある意味で「平板に」撮っていく。幾何学的なデザイン性と匿名の人たち。都市。だがそれは「都市による人間性の阻害」みたいな、ネガティブなものとして捉えているわけではない。人の感情が伝わるような要素がなくても、勝手に観る人が、そこに自分の思いを載せていくような作品だ。

きっと、ライターはニューヨークに生き、ただシャッターを押しつづけただけなのでは? 生きた場所だから、リアリティがあったのでは? 撮影の場はいつもイーストビレッジの家の近く。だから、珍しさだけで撮る、旅行者の写真のようにはならなかったのでは?

パリやローマの作品のつまらなさ

ニューヨークの街を離れた写真は、予想通り平凡だ。

ローマで撮られた作品は、教会や聖堂の前だろうか、石段を真横から撮った作品だ。アーチやドームのようなローマ様式を意図的に避けて、「ニューヨーク的な」意匠を無理に探しているように見える。

パリでは、ガラス越しにカフェらしきところでぼんやりと佇む女性を捉えた作品を撮っている。ニューヨークでの作品と違うのは、表情に焦点があっていることだ。ローマとは逆に、妙にフランスっぽい。逆の意味で平凡だ。

やっぱりそうだ。思いを強くする。

ニューヨークのような、赤茶けたレンガや、古びた鉄柵はそこにはない。ソールの表現の必然性のような強さは、わかちがたくニューヨークの街と結びついている。

人すら、風景

仮説に自分が囚われている可能性はもちろん否定できない。

だけどやっぱりポートレートを観ても、冴えないという印象しかない。パートナーを撮った作品やセルフポートレートがあった。親密な雰囲気で、被写体がカメラを意識して撮られた作品であればあるほど、よくある作品に見えてしまう。(少なくとも僕が思う)ライターらしさは、そこにはない。

ところが同じ被写体の人物でも、カメラマンを意識しないような、街中のスナップになるととたんに写真が浮かび上がり、生き生きとしだす。不思議な立体感とパワーが宿りだす。人が主題の作品であっても、親しい人のスナップよりポートレートより、街の見知らぬ人や仕事で撮ったモデルのほうが、ずっと強い印象を放つのだ。

この人って、「都市印象派」なのでは?

結局のところ、ライターの本質は、「都市の光と色彩と距離感。ただその瞬間を切り抜き続ける」ということなんじゃないだろうか。

都市印象派?とでもいえばいいのか。そのへんは専門家でもないのでわからない。だが、作りこむのでなく、切り取り続けるところ、そこが「映画のワンカットのような美しい写真」と、ライターの写真の決定的な違いだ。

革新的な芸術家によくある、常に新しいものを目指し、作風を変え続けるような試みは、少なくとも作品からは見て取れない。コンタクトシートをつぶさに眺めてもわかる。被写体の人間や風景が、その姿を刻々と変えるままに、ただひたすら撮り続けている。モデルへの指示や、構図の試行錯誤の痕跡がほとんどないように見えるのだ。

2000年代まできても、変わっていない。傘。街の光。雪。街の織りなす幾何学模様。

だから、わざとらしさもクサさもない。きっと、ライターは自分の「ひっかかる」風景を、ひたすら撮り続けた。何も考えず。毎日、白いごはんを食べるような感じで。

ライターの写真に出てくる人間は、匿名で、街の一部なのだ。そこにいいも悪いもない。そういう人間のありかただって、僕らが今生きる日常じゃないか。

きっと、僕たちのなかにもライター的な日常の風景があるのだろう。東京に住む僕にとっての「ライター的なもの」ってなんだろう。ライターが仮に東京で暮らしていたら、なにを撮り続けていただろうか。電線が織りなす直線だろうか。梅雨の雨粒だろうか。そもそも、東京ってどんな都市だっけ。

アートは、「つまんね」と思った時が、いちばん楽しい。

そんなことを考えながら、図録をペラペラとめくると、彼のこんな言葉があった。

写真を撮るとき、絵のことは考えなかった。
写真を撮ることは、発見すること。
絵を描くことは、創造することだ。

『永遠のソール・ライター』(78p, 2020年, 小学館)


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