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なんのオチもない親孝行の話

もうすぐ誕生日である。
もはや嬉しいなどとは微塵も感じない年頃になったが、一応意識には残ってしまう。

二週ほど前だっただろうか、父親から「誕生日にウチで飯を食おう」などとメールが来た。
こういうとき普通の成人男性はどう思うのだろうか。なにを隠そう、わたしは無茶苦茶むかついてしまった。なんで誕生日の日におまえらと飯を食わなきゃいけねーんだ、という感情である。普通は恋人などと過ごすような日だ。なにが悲しくて年老いた両親と飯を食わなきゃならないんだ、と。とにかく思い出すと今でも腹が立ってくる。
これが十代の頃だったら「二度と話しかけるな、ころすぞ」くらいのことは言ったと思う。

どっこい、わたしも大人である。一人で生計を立てている大の大人である。怒りを文章に乗せて電子空間へ送信する前に親指を止めた。親孝行などという概念を思い出したのだ。

世間のわたし以外の成人男性は、両親と飯を食うイベントは〝楽しみ〟に分類されているのだろうか?
正直にいって、わたしにとっては苦痛以外の何者でもない。まったく楽しくない。罰ゲームでもかなり嫌な部類に入る罰ゲームである。休日にそんな時間を使うくらいなら、腹が減っても家で寝転んでいる方がマシに思う。

しかし、だ。
両親を嫌いかといえばそうでもない。若かりし頃はまだしも、大人になってから振り返ってみれば、まあ感謝の方が強い。少年時代には真夜中に区をまたいだ警察署まで迎えに来させたことを思い出し、きっと田舎町で真面目に育った母親が結婚前夜に思い描いた家庭像とはこんなんじゃなかっただろうな、と反省したものである。わたしにも家族愛的な感情が無いわけではない。
〝亭主元気で留守がいい〟の両親版であると書けば分かりやすいだろうか。

が、一緒に食卓を囲んでも楽しくはない。全然面白くない。たまに親と買い物に行っている若い子などいるが、わたしからすれば考えられない。密室での食事でさえ嫌なのに、オープンスペースを闊歩などド級のバッドエンディングである。冠婚葬祭でどうしても両親や親類と街を歩かねばならない日など苦痛のあまり奥歯を噛みしめ歯茎から血が滲む。幸い本家は地方都市なのでバックレはしないが、もしも渋谷を歩かねばならないのなら参加しないだろう。

やはり皆もそうだろうとしか思えない。みんなそれを我慢しているだろう。両親と飯、そんなにつまらないイベントが他にあるだろうか。
もし皆はそんなことないと言うのなら、わたしは中二病、ないしピーターパン症候群なのかもしれない。遊ぶように生きてきたツケである。
――断ろう。
そう考え続けておとついまで返信をシカトしていた。しかし、どうするんだと父親から追証がかかり、「行く」と返事をしてしまった。
わたしも大人になったのだと実感した。
こんな形ではあるが実感した。
あんなにつまらないイベントに渋々でも足を運ぶ程度には親孝行を意識し始めた。あと何回親と飯が食えるんだ、みたいな言い草があるのは知っている。それでも退屈なものは退屈だしまったく楽しめないのは事実なのだ。それでも行く。幸か不幸か、祝ってくれる恋人はいない。コロナ禍で飯屋も閉店が早い。こんな今しか実家に帰る気などしないのではないか。行くしかない。

あー、行きたくねえ。
つまらない誕生日になりそうだぜ。

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