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大晦日の中条きよし

 ここのところ、大晦日は毎年テレビ東京の懐メロ番組『年忘れ にっぽんの歌』を横目で眺めながら用事を片付けている。以前は『にっぽんの歌』や『笑ってはいけない』や紅白歌合戦をグルグル巡回していて、カウントダウンまでテレビのリモコン握りっぱなし状態だった。が、最近はもはや紅白も出場者が軒並みナウすぎてグループ名を覚えるのもやっとこさで、知り合いやお取引先関係の方の出番くらいしか見なくなってしまった。
 が、『にっぽんの歌』のほうは逆に、一時期は中途半端に若者向け企画など織り込んでいたのが、近年は本来の懐メロ歌謡路線に振り切ってくれた。なので、見るともなしにBGMがわりにつけていても知っている曲ばかりなので楽しい。今年も、決してご高齢の先生ばかりではないとはいえ、ナウい人たち系は純烈とDAIGOでギリ…というエクストリームな顔ぶれ。さらには紅白の懐メロ枠が縮小されたぶん、五木ひろしや細川たかしといった大御所がたっぷりと歌ってくれたりするし。ほどよくのんびりしたムードもありつつも、歌い継がれてゆくべき、これからも忘れられてはいけない名曲の数々をしっかりと見せる、とてもまっとうで筋のとおった音楽番組を作るのだという心意気が感じられた。

この番組、歌謡曲好きとしては年にいちどの定点観測イベントでもある。
当然のことながらベテラン歌手の方々もだんだんお年を召してきているが、この番組に出ることを目標に、大晦日に元気な歌声をテレビで聴かせられるように頑張っていると公言する歌手の方は多い。でも、仕方ないこととはいえ1年前までと比べて急に歌声が細くなるような方もいて、「そろそろリタイアを考えているのかもしれないな」と少し心配になったり。あるいは、何年か前には「昔は上手かったのになぁ」と残念に思っていた歌手の方が、ご自身でも思うところがあって奮起されたのか、昔のような艶やかな歌声を聞かせてくれて胸が熱くなることも。そして、そういう方って、見た目もパッと華やかに明るく変わっていたりするんですよ。あと、ここだけの話だけど、ファン相手のコンサートでは力を抜きまくりなのに、この番組になると別人のように本気出すなぁ…という人もいる(笑)。
1曲か2曲という短い持ち時間の中でも、曲そのものだけでなくいろいろな物語が見えてくる。本当に面白い。
これが「流行歌」「歌謡」と呼ばれる音楽の底力なのだろう。

それにしても、ひとつの時代を作ったベテランのみなさまが本気を出すステージは、単にうまいとかうまくないとかいうレベルではなく、そういうものを超越して、本当に、本当に、本当にすごい。たとえ相対的にはもはや決して「うまい」ともいえない歌であっても、その声から伝わってくる、その人の生き様も映し出すソウルに心震えることもしばしばだ。そして、そういう歌に触れることができるのは、こういう懐メロ番組がずっと続いているからこそ。芸を極めた歌手たちだって、自分たちへのリスペクトを感じる舞台に立つことで士気があがるのは当然だ。この番組が毎年どんどん本来の“音楽番組”に回帰してゆくにつれ、出演者たちの本気度も上がっているのではないかという気もしている。

 「練習は裏切らない」というのはスポーツだけではなく音楽にもいえることだが。ベテラン歌手の方々の歌声が描きだすのは、成功や挫折を重ねてきた道のりそのもの。ボイトレでどうにかなるようなレベルを遥かに超えた、“どう生きてきたか”の積み重ねがくっきりと映し出されている。時には残酷なまでにくっきりと。

 今回わたしが個人的にいちばん心に残ったのは、中条きよしの「うそ」だった。

https://open.spotify.com/track/7xfs8nO9Ct79EaL9sMJEVA?si=ad6380d8deff443a

 歌謡曲好きなら誰もが知っている名曲で、たぶん彼自身も“歌手”として舞台に立つ時には必ず歌う曲で、もう何万回も歌っている。ふつうなら、お客さんを飽きさせないために、自分自身を飽きさせないために、あるいは往年のように歌えないことをごまかすことに、ちょっとフェイクを入れて崩し歌いをしてみたりしてもおかしくない。また、素直にオリジナル通りに歌ってはいても、歌の金属疲労というか、曲そのものが色褪せたり、疲れて見えてしまうことだってある。
でも、中条きよしの「うそ」は、崩れてもいないし疲れてもいなかった。その後、俳優としての活躍で磨いた“演技”的なエッセンスすら使おうとせず、ただ、ただ、歌手としての変わらない面だけで歌っていたように見えた。

美しい歌だった。

本当に丁寧に、まっすぐ歌っていただけ。なのに、なんて美しい歌だろうと思った。中条きよしの“歌手”としての矜持が見えた気がした、そのせいかもしれない。

歌う側も聴く側もすっかり馴れ合いの関係になっているはずの、長い歴史がある超ヒット曲。なのに、そうは思わせなかった。これだけ長く歌われている曲なのに、この緊張感は何なのだろう。もしかしたら中条きよしの中には、この曲が世に出る前、この曲をラスト・チャンスとして再デビューする時の感覚が今も残っているのかもしれない。
ヒット曲にとっての、胎内の記憶…みたいな。
およそ半世紀前に初めてこの曲を聴いた人たちの顔までもが浮かんでくるような、そんな新鮮な響きがあった。懐かしい歌でもなければ、未知の歌でもない。今、ただ、ぽつんとここにある「うそ」。そういう存在感だった。この曲を初めて聴く人にもしっかりと届く歌声だなと感じたのは、そのせいだろう。

さらには、いくらオリジナルに忠実に丁寧に歌っているとはいえ、歌う人が年齢を重ねたからこその深みが加わっている。

爆発的なヒット曲は、それを演じる人間を豊かに幸せにするだけでは終わらない。曲は、やがて歌い手自身の想像も及ばぬ遠いところまで広がってゆく。その過程で、曲はとてつもなく誤解された解釈で支持されたりすることも、やつあたり的に批判を浴びることもある。それによって、本来は主役であるはずの歌い手のアイデンティティも激しく揺さぶられることになる。
余談になるが、自らのそんな経験を歌にしたのがジェイムズ・テイラーの「That's Why I'm Here」という名曲だ。1970年、自身の「ファイア・アンド・レイン」があまりにも大ヒットした後、どこに行っても「ファイア・アンド・レイン」を歌ってくれと言われ続けて心が折れてしまった…という実話をそのまま歌詞にしている。結局、歌の中に出てくる主人公=JTは「いいよ。だって、それが僕がここにいる理由だもの」と「ファイア・アンド・レイン」を歌うのだけれど。そんなことをわざわざ曲にするくらいなので、本当に心から「いいよ」と思っていたのかはわからない。本当はイヤなのに、棒読みで「いいよ」なのかもしれない…。とにかく、中条きよしもすごいが、この曲を書いたジェイムズ・テイラーもすごい。
あまりにも大ヒットした曲の弊害に疲れきって、あえてセットリストやベスト盤から外したくなったミュージシャンにはぜひ一聴してほしい曲だ。

https://open.spotify.com/track/1MyJzIJS8xpHgO9wYKcj86?si=1c35adf4e22e4721

 話は、『にっぽんの歌』での中条きよしに戻る。
「この曲は俺のものだ」という主従関係ではなく、その曲に自らを捧げているようなスタンスがとても印象的だった。いい意味で自我を後回しにしている姿勢が生み出す、謙虚さにも近い穏やかなたたずまい。結果的にそれが、曲全体に不思議な気品のようなものを与えていた。そして、その気品が曲の主人公である女性のこともより美しく見せ、物語の悲しさをさらに際立たせていた。

一昨年の出演時。
いかす!きよし!
ファッションは完全にマラコ系ソウルですけどね。ちなみに、この番組は全体的にソウル系多し。ある意味、マツケン・サンバも含めて。あと髪型はリトル・リチャード系がトレンドの模様。

 ご存じのように、この曲はクズなヒモ男の浮気に気づいてしまった女の哀しみを描いた、わびしくエロい物語。結婚する気もないのに、花嫁衣装はドレスにするのか着物にするのかと自分から言い出し、あげく「僕は着物が好きだよ」などと嘯く、クズ中のクズ野郎に惚れてしまった女。そんなわびしすぎる昭和の悲恋を、まるでフランス映画のような淡い色調で美しく描いたのは山口洋子。そこには作詞家としての彼女の気品がある。そこに、中条きよしの歌い手としての気品が加わることで、この物語には思いがけないケミストリーが生まれた。気品にあふれたラッピングの奥にある、超絶にヤらしい核心部分。その裏腹さが、この曲の真髄。で、そのヤらしい核心が、どうやら今、半世紀かけて底なし沼のように深いところまで進化しているのだ。
と、そのことに気づいて(というか単なる妄想ですが)慄然とした大晦日であった。ひまか。

かれこれ半世紀近くもこの曲を聴いてきた私が、2021年の大晦日に中条きよしが歌う「うそ」のイヤらしさに鼻血を出しそうになっている。
ああ、歌謡曲ってすごい。いや、違う。中条きよしがすごいんだ。

「うそ」に限らず、思えば昭和の頃には、親や親戚の前では歌ってはいけない素晴らしい歌謡曲がたくさんあった。燃えたぎるようなヤらしい“何か”を歌った曲は、その正体を理解できない子供心にもヤバいものだということだけは伝わってきた。そのヤバさは、おそろしく魅力的だった。だからこそ、子供たちは学校の帰り道に「うそ」とか「伊勢佐木町ブルース」とか「おんなのみち」をウッフンとかアッハンとか身をくねらせながら歌っては大人に叱られていたのだ。
人間には、許されないものに魅かれてしまう愚かな本能がある。
それを教えてくれたのは昭和の歌謡曲だった。少なくともわたしにとっては。

他にも『にっぽんの歌』では、今や加藤・仲本・ブーという3人になってしまったザ・ドリフターズの歌も感動的だった。そもそもここ最近の私は、ドリフを完コピしたピンクマルティーニ版「ズンドコ節」を聴くのが年越しの恒例行事になっていた。去年などはピンクマルティーニのニュー・イヤーズ・イヴの配信ライヴを見ていたくらいの、無類のズンドコLOVER。

https://youtu.be/NoE0B--dmL4

なので、現在の生ドリフで「ズンドコ節」を聴けたのも嬉しかったし、歳はとってもグルーヴィーな3人のバンドマン魂に触れて力づけられた。と、本当はドリフのことも書きたかったけど時間が足りなくなってしまった。

https://youtu.be/9i4JG-8RlsY

 どうです、若きカトちゃんの母性本能くすぐりまくりのまなざし!そして、なんといっても荒井注の色気ダダ漏れっぷり!
もう、この映像を見すぎた私は、もはや注さんのヘアスタイルがブラピに見えてます(笑)。というわけで、ドリフの話はいずれまた書きます。

 ちなみに『年忘れ にっぽんの歌』の後は『孤独のグルメ』を見て、その後は東急ジルベスター・コンサート…と、2021〜2022の年末年始はテレビ東京三昧で過ごした。
今年のジルベスター・コンサートの指揮者は、国際的にめざましい活躍を続けている俊英・原田慶太楼。かのジョニー・マーサーの故郷としても知られるジョージア州サヴァンナ(サヴァナ)のオーケストラで芸術監督を務めるなど米国でも大活躍で、私が今いちばん気になっている指揮者だ。ソリストにはソプラノの小林沙羅、チェロの宮田大、ピアノの阪田知樹と若々しく華々しい才能が勢揃い。ここでも、人それぞれの音楽に対する向き合い方というのはあらゆる音楽にあらわれるものだなぁと思って、お正月は中条きよしとジルベスター・コンサートについて並べて書こうと思いましたが、いやぁ、中条きよしだけでも書きたいことが多すぎました。原田さんや、宮田大さんのことなども、またあらためて書きたいなと思う。

こういうことは、すぐにメモっておかないと忘れてしまいがちなので、今年はメモ・クオリティの内容でもちょこちょこnoteのほうに投稿したいです。

昨年、わたしの音楽の趣味には“受け皿”がないことに気づきました。それは、自分にはまだ勉強が足りないせいだろうかとか、言葉にする能力が足りないのだろうかとか、人として問題があるのだろうとか悩んできましたが、受け皿がないなら仕方ありません。誰も悪くない。わたしも悪くない。
だからnoteがんばるぞ。おー(笑)。

毎日1曲ずつ、好きな曲や新譜からの曲を足してゆくマンスリー・プレイリスト《東京スケバンplaylist》は今年も続けてゆきたいと思います。こちらも、もしお気が合うようでしたらフォローしていただけると励みになります。

Spotifyのスケバンちゃん画像も2022年ヴァージョンにしました。マスク、はずしてみましたよ。

https://open.spotify.com/playlist/2EQJbcmwVL5M60txOCVObL?si=210672ec2ce944cf

おひまつぶしにでも、おつきあいいただければ幸いです。

というわけで、今年もどうぞよろしくお願いします。


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