戯曲におけるプロット思考、あとは退屈について

「桃から生まれた桃太郎が仲間を集めて鬼退治に行く」この一連のストーリーに焦点を当てて作品をつくるとしたら、やっぱり最適なメディアは映像になってくると思う。なぜならカメラは、川上から鬼ヶ島まで桃太郎についていくことができるから。

もしこれを演劇にするとしたら川、家、道中、鬼ヶ島の少なくとも4ヶ所の場所が必要になり、3回も転換しなくてはいけない。小さい子供も楽しめる桃太郎はそれだけストーリーがシンプルだということだから、展開もさせづらい。長くても30分くらいの尺にしかならない。30分で3回の転換がある舞台というのは、まあ、冷める(逆に30分で10回の転換があるとかなら話は変わってくるけど)。

じゃあ桃太郎を舞台化するのは不可能なのかというとそうでもない。桃太郎のストーリーではなくプロットに着目してみればいい。つまり一連の大きな流れではなく、一点の小さな出来事に。例えば鬼ヶ島に到着してから鬼と戦うまでの時間。「猿がトイレに行ったきり帰ってこない」としたら。道中、猿に手を焼いてきた桃太郎は逃げ出したのではないかと疑い、一番先輩で義理堅い犬は猿を庇い、逃げようと思えばいつでも飛んで行けるキジはトイレに続こうとする。これなら場所は鬼ヶ島入場ゲートの1ヶ所で済み、せいぜい尺は5分といったところだが演劇としては成立する。さらにここに「犬の実家から母親が危篤という手紙が届く」「キジがトイレで猿の書き置きを見つけてくる」などの出来事(=プロット)を足していけば、15分くらいの寸劇が出来上がる。

それはストーリーを作るのと何が違うのか?と思う人もいるかもしれない。でもプロットはストーリーとは違う。プロットとはストーリーの中の1ブロックに過ぎない。だが肝心なのはストーリーを解体したものがプロットなのではなく、プロットを並べてみたら偶然できてしまったものがストーリーだということだ。なぜならプロットは出来事であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。「犬の実家から手紙が届く」と「キジが書き置きを見つける」の間に連続性はない。それぞれが独立した出来事に過ぎない。

ストーリーがあるひとつの終わりに向かって美しく紡がれた物語であるとするなら、プロットは突発的に投げかけられたお題だ。登場人物はそのお題の中で何をするのかを問われる。そしてそれが問われるのは役者も同じで、ここに演劇が役者のものであるといわれる所以があるのではないかと思う。

映像ではストーリーという絶対的な拠り所があるため、役者はそのストーリーの担い手としての演技を求められる。そうした類の演技がやりたいという役者ももちろんいる。むしろそっちの方がいる。なんせ演劇の方ではお題しか与えてもらえないのだから。つまり下手をすれば退屈なだけの時間をどうにか面白くしていかなければならないのだから。こういうくさいことはいいたくないのだけど、それはどうしても人生そのものにみえてしまう。

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