Anger is never without an argument, but seldom with a good one.

以前の会社で働いていたときに仕事の関係で国立国会図書館に登録した。せっかく登録したんだから退職後も戯曲執筆のために通おうと意気込んだものの、無職にとって往復の交通費は馬鹿にならず、足は次第に遠のいていった。ちなみに先日働き先が決まったのでニートからフリーターへと今わたしは着実に駒を進めている。まさに充実した人生という感じで、そんな風に羨望の眼差しを向けられても困る。
で、それじゃあやっぱり自宅で書くかということになるんだけど、春を告げる風が建て付けの悪いドアをカダガタとノックする音や、時折発せられる隣人の「あ」という独り言にそれはそれは腹が立ち執筆どころではなくなる。この隣人については計り知れないほどの「思い入れ」があるため後日改めて記すとして、私に残された選択肢はカフェか近くの図書館の二つだった。交通費をケチる人間がカフェを選ぶはずもなく、私は自ずと図書館へと足を運んだ。
図書館でパソコンを操作していいものかと訝しげに思ったが、調べてみるとなんとそこにはパソコンシートなるものがあるらしい。しかし二席だけ。だから人の少ない時間に行かなければならないのだが、ニートほどこの点に長けている職種はない。昼とも夕方とも呼び難い14時に図書館を訪れるといとも簡単にパソコンシートを獲得できた。その席は館内の最奥にあり、仕切りによって周りからの視線を遮断するブース型で、まさに私の求めていたものだった。
それからは毎日のようにそこへ通い、満足度200%で執筆しているのだが、今日は二人の司書が終始近くで会話をしていた。内容は明らかに業務上のもので、二人には全く何ら過失はないのだが、だからこそ余計に怒りが湧き上がった。つまりそれは神に対する怒りである。なぜよりによって神は熱心に労働する司書たちと、情熱をもって執筆する私を、この広い世界でこれほどまで近くに配置したのか。せめて司書たちを大英図書館で会話させるなり、私をエジプトの砂漠で執筆させるなりしてくれないとこうなってしまうのは百も承知のはず。私はこの「神の配置」を呪う。
しかし「配置」を憂いてばかりではいけない。運命によって定められた「配置」の中でも平和を手に入れることができるということを私たちはこの頃逆説的に知った。確かな知識と人並の冷静さがあれば、怒りというものは容易く抑えられるのだ。次回から私は耳栓を持っていく所存だが、彼には補聴器をおすすめする。

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