投票した先にある光

※この文章は極端に主観的に書かれており、多くの「間違い」を含みます。だからといってなんというわけではありません。

バイトのシフトが入っていたのと、混雑を避けたかったのとで期日前投票を済ませておいた僕は、選挙速報をバイト先の休憩室で確認したのですが、その感想は「やっぱりそうかあ」と「にしてもそうかあ」の二つでした。
実はその休憩前、同僚との間で都知事選が話題に上がっていました。先輩があまりにもド直球に「誰に入れたの?」と聞いてきたので「山本太郎に」と答えました。そして隣の同期は「小池百合子に」と答えました。
休憩明けに「小池百合子が勝ったみたい」と伝えるとその同期は「おめでたいです」と言い、少し間を置いてから「山本太郎と迷ったんですよ」と付け加えました。その言葉に僕は違和感を覚えました。なぜなら僕の認識では小池氏と山本氏の政策はほぼ真反対だったからです。
これは憶測に過ぎませんが、たぶんその同期は山本氏に投票した僕に気を遣ってそう言ったのだと思います。しかし僕のショックは選挙で負けたということ以上のものではなく、また僕は投票先が異なるというだけで相手を恨むような人間でもありません。そして多くの有権者がそうした認識でいると僕は考えていました。
ですがその同期からその発言を聞いてしまうと、どうしても小池氏に投票した人たちにそんな認識はないのではないかと考えだしてしまいました。
小池氏は政策に関するYes/Noの質問の多くに△という回答をしてきました。その△からは「Yes/Noを明言しないことで対立層を生み出さず『平和的に』勝利する」という考えが読み取れます。
そしてそんな小池氏に投票したその同期は僕に対して「平和的な」コミュニケーションを試みたのです。

上記の言動もあってその政策を見る前から僕の中に小池氏に投票するという選択肢はありませんでした。そして実際政策を見ても到底投票する気にはなれませんでした。
僕は自分の一票が重いとは考えていません。投票に行く理由は自分を納得させるため以外にはありません。しかしワンチャン投票した人に勝って欲しいと思うのもまた事実です。そうなると比較的当選確率の高い人々が選択肢に上がります。
そしてその中で政策に大きな問題点はないと感じたのが宇都宮健児と山本氏でした。どちらかというと世間では宇都宮氏の方が勢いづいているようでした。ですが僕は宇都宮氏には投票しませんでした。
その理由はYouTubeで行われた都知事選候補討論会における、同性パートナーシップ制度に関する宇都宮氏の発言にあります。「先日LGBTの方とお話をしましたが、その方達が言っているのは、自分達は社会的に存在しないことになっている、制度として認めてもらいたい、ということ」
僕はまず「LGBTの方」という言葉に違和感を覚えました。なぜならレズビアンの人やゲイの人は存在しても、LGBTの人は存在しないからです。その言葉に宇都宮氏の、小池氏ほどではないにせよ、マイノリティーへの無自覚さを感じました。
そして発言自体も、もちろん間違ってはいないのですが、2020年に都知事になる人のものとしては余りにも悠長だと感じました。「先日」この理解をしているようではこの先どれだけの時間が必要になるのだろうかと考えずにはいられませんでした。
一方で山本氏もそうした無自覚さが感じられることはこれまで多々ありました。ただそれでも僕が山本氏に投票したのは、山本氏は自分が理解できていないことに対してすぐさま知識を蓄えられる人だと感じたからです。
僕は政治家に必要なものは、信頼でも、人格でもなく、正しい知識だと考えています。たとえ立ち振る舞いが嘘くさくても僕にとってそれは評価の対象ですらありません。取ってつけたような知識でも、それが正しいものなら正しいのです。
正しさなんか曖昧だという人もいるかもしれませんが、政治において正しさは存在します。政治は詩でも、物語でもなく、システムです。むしろ正しさを正しく機能させるのが政治の役割です。同性パートナーシップ制度の導入も、ヘイトスピーチへの罰則付与も、同情からではなく、正しい知識から行われなければなりません。

選挙速報を見た直後はショックを受けていたのですが、実は少しずつ心が明るくなっていくのを感じています。なぜなら昼間より夜の方が光は輝きを増すからです。偉大な芸術家達は暗い時代に多くの輝かしい作品を残してきました。
コロナ禍が人に会いたいという欲望を、劇場の封鎖が演劇への渇望をもたらしたように、まだ続く暗闇には何か力強い光が差しているはずです。その光を言葉や身体で形にして人に見せるのが楽しみで仕方がありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?