なんの話 その8

味噌汁にハマっている。プカプカと浮かぶ大根にしがみつきながら60度、香りが飛ばない程度にのぼせている。背中がチリチリするのは火傷なのか、それとも葱が当たって擦れているのか。ボーッとしながら味噌汁の対流を眺めていると生き物のようにみえてくる。実際、味噌そのものは生きている。それを知ったのは制作会社で働いてたときのこと。プロデューサーに薦められて観たドキュメンタリー、ひとつは福知山線の脱線事故についてのもの、もうひとつが和食における菌についてのもの。たしか醤油を作る工程、豆とドロドロの液体が入った壺がひとりでに音を立て始める。それはまるで生き物の様、ではなく生き物なのである。発酵は菌の活動。ということを画面越しにではあるものの、実感したというのはヘンな日本語だけど、やっぱりあんなに生きてるのをみせられるとやっぱり違うな。この味噌汁の沼も僕がハマっているのではなくて、僕がハメられているのかもしれないな。そんな風に思うのは、いま自信を失っているからというのもあるかもしれない。厳密には失っていないんだけど、自信を擦り減らしているというか、前までは手の甲の皮膚を少しでも剥がせばパンパンに詰まっていた自信が、餅みたいに膨らんできてしまいそうなぐらいだったのが、今は体内の小宇宙の中心に蝋燭の火みたいに細々と輝いてるだけ。ただ輝いてるだけ。愛する人たちと愛さない人たちの愛すべき行為と愛さざるべき行為の煽りを受けて、危うく消えかけてあぶねーーーーと思い続ける横長の時間が、絶えることのない。その間に時として挿入される近所の騒音。ぎゃーと叫ぶ深夜それは羨ましい。もうしばらく叫んでいない。叫ぶという行為がある種のセラピーであるのは、その行為の結果としてではなく、むしろその前提として、叫ぶことが許されている、という実感があることによるのではないかと思う。だって生きてて叫んでもいい状況はあんまりない。それはコロナとか関係なしにね。

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