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想像を創造する 『すずめの戸締まり』/新海誠

※以下は「すずめの戸締まり」に関した内容です。
文庫版、映画のネタバレはありません。


「私」と「私」

日常を過ごすために、私たちは常にだれかの「お世話」になっている。それは、朝に起きる瞬間から始まっている。目覚まし時計だ。目覚まし時計は私たちが起きたい時間にアラームが鳴るように自動設計されている。つまりは、このような時計になるように設計した「誰か」が居るのだ。私が寝ているベッドやパジャマ、照明、カーテン、陽の光、コップ一杯の水、シャワー、歯磨き、朝食…。朝という場面だけでも、私は多くの人に、常に「お世話」されているのだ。しかし、このことを常日頃からひしひしと実感して過ごす人はほとんどいない。
「想像をしない(できない)ことを前提とする想像」が、私の規範になっているという、複雑な何かが、関わっているのかも知れない。

この規範によって、私は朝の各々の場面を「想像」するに至ることはなくなる。1日を通して、この規範による想像力はフルに活躍し続けてしまう。それはたしかに「想像」でありながら、その「想像」自体は各々の場面に働く「想像」なのではない。パターン化した前提のもとに繰り返される「想像」であるしかないのだ。このような「想像」は、はたして悲しいものなのだろうか?一概には、そうも言えない。過去、戦後の悲壮感に打ちひしがれていた日本国民は、この悲壮感という「想像」から脱する術が必要だった。悲しみに明け暮れ、その感情に支配される「想像」から脱却せねばならないという明確な意識があった。その脱却には、もっと強固な「想像」が必要だったのだ。
私たちの、幸福と感じる場面には、このような過去の「想像」の創造が、間違いなく存在していた。

私は、「私」をどのように想像するだろう。私が、「私」を想像することは、基本的には難しいことだ。私が、「私」を考えるとき、思考する私がすぐそばにいるのであるから、「私」の正解は、常にここに見えているものである。そうであるのに、「私」とは何であるのか、分からずにいる。この状況を俯瞰すれば、常に「私」は困難に満ちている。それでもなお「私」を想像することを試みるとき、「私」を見つけることができずに絶望してしまう。この「私」への絶望に対して、数々の科学や哲学は対抗してきた。しかし、この「絶望してしまう」という事態は、「今の私」が考えている事実でしかないのだ。「私」は困難である前提にかかわらず、このような事実は、既知として容易に受け入れている私自身がいるのだ。
今の私がそのように思う行為で、「私」を想像できなくなることを前提とした想像を容認することになる。
そうなのであれば、何よりもまず、私は「私」を想像するときには、今の私を限りなくフラットへ、非相関的思考へ、逃げさせなければならない。非常に困難な事なのは百も承知だ。ならば、このように考えればいい。「今の私は最強だ。最強の今の私は、これからの「私」を想像することはたやすい!」ある種の思考停止である。

「すずめの戸締まり」には、他者と関わり合いながら、「私」と向き合う主人公が描かれている。様々な出会いと移動を繰り返すさまは、まるで「想像の創造」である。そして終盤には、核心的な他者としての「私」に出会うことになり…(ごにょごにょ)。

映画の美麗なイメージングには、もちろん期待しまくりですが、それよりもまず、そのようなイメージングは「物語の装飾」であるのは間違いのないこと、そこには物語の核心は「無」であること、これを意識して鑑賞したいと思います。

物語の核心は、つまり本質自体は、新海誠監督自身であり、物語の構造であるのだから。(それでもきれいな背景画には期待)


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