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トリスタン•ツァラという天才の発明 DADA について

シュルレアリスムの前型であるDADAを初めた開祖であり、私見ですが、トリスタン•ツァラ以外のDADA はDADA ではありません。
圧倒的にDADA をする上での才能が足りていないからです。才能などという言葉を使うのは嫌なのですが、その微妙な感覚を包括して表現する言葉が存在し無いのです。DADA という形態に対する、構造、理論、方程式の解像度が、とにかく段違いなのです。まぁ、それはトリスタンツァラが作ったものなのだから、そりゃそうだという事なのですが。トリスタン•ツァラが制作するDADA は面白いのです。

DADA 宣言、冒頭のDADA は全てを否定するという文言を見た瞬間に、それ否定神学じゃん、じゃあ見なくていいわ、とアレルギーを起こす人がいるかもしれません。

しかしDADAとは、DAという肯定の意を表す語が二つ重なった、二重肯定を表す語なのです。

辞書にナイフを振り下ろして刃の先端が刺さった語をランダムに選んだという有名なエピソードは
明らかに、トリスタン•ツァラがダダイズムという思想の権威づけの為に創作したものです。

それっぽいものが崇められ既得権益として蔓延るくらいなら、天才という曖昧な定義の信仰より、偶然性を肯定し、参入障壁のハードルを下げる事で下らないインナーサークルのままごとに、終止符を打とうとしたのだと思います。

どれだけAIが発展しても、作家性というものを人間は評価するから、人間から創造性は奪えないというのは少し正確でないと思います。漫才などの身体性が重要なコンテンツであれば分かるのですが、書籍などの単なるテキストデータだけで構成されているものに、大衆が作家性を求め続けるという論の根拠はどこにあるのでしょうか?

雨月さんや麻布競馬場さんなど、身体性から脱したスタイルがむしろ注目を集めている現代で、作家性という権威は幻想でしか無い。そもそも本人が語る主観的な歴史には、演出がかった創作物でしか無い。指先を切ったぐらいの怪我で大騒ぎする、劇場型虚言癖による不幸自慢と、不幸自慢を許さないマッチョイズム、無関心を装う冷笑家の俯瞰からの批評。この、せいぜい三つくらいの人格が永遠にポジショントークし続ける地獄が続くだけだ。そんな無様な末路を辿るぐらいなら、圧倒的物量と偶然性によって生まれるAIが、全てを薙ぎ払って、全員ぶっ飛ばして欲しいと私も思います。

口「会話が退屈になってきたね、そうでしょう?」
目「ええ、そうでしょう?」
口「とっても退屈だ。そうでしょう?」
目「ええ、そうでしょう?」
口「もちろん、そうでしょう?」
目「とっても退屈、そうでしょう?」
口「ええ、そうでしょう?」

トリスタンツァラの戯曲


六十九のセリフからなる第一幕の三分の一ほどは、永遠とこの調子で続けられる。もう一人の登場人物の鼻は、そうとも、そうとも、そうとも、そうとも、そうとも、と毎回正確に五回繰り返す
だけだ。第二幕も、「ええ、知っています」と「ありがとう、悪くないね」というセリフが永遠と繰り返される。

この戯曲を公演したところ、観客が馬鹿にされてると思い、途中でブーイングが起こった。
だが、製作者であるトリスタンツァラは、戯曲を観る為の素養が欠如している大衆が、自身の理解力不足を作家の表現力のせいにしているとブチ切れた。

それっぽい作品が淘汰され、客の野性的な感性によって選択される市場を求めていたのに、既存の戯曲との相対的な評価によってバッシングを受けた事に憤りを感じたのだ。

私はトリスタンツァラを支持する。これは、日常的な会話の無内容に対するコラージュである。そして、同時に全く無意味な二重同調表現、トートロジー的、進次郎構文的相槌によるユーモアによって、そのアイロニーを包んでいる。

だが、この愛憎入り混じった感情の機微を読み取り、ブーイングでは無く、温かい拍手に包まれて欲しかったとは思わない。観客の反応とそれを受けたトリスタンツァラの反応によって、この戯曲は真に完成されたと思うからだ。

皮肉では無く、トリスタンツァラはアーティストとして、唯一無二の天才なのだ。



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