極楽とまではいかないけれど【ひとことお題13】
ほぼ毎日「ひとことお題」、本日は『極楽』
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小さい頃、ばあちゃんが読ませてくれた絵本に「地獄と極楽」を描いたものがあった。絵本というより、中身は手塚治虫テイストなマンガになっていて子供心にとても読みやすく面白かったのを覚えている。
主人公は恐ろしい地獄をいくつも見て回ったあと、身内が積んでくれた徳によって極楽へ行けることになるのだが、そこでの生活がとても奇妙で、地獄のパートよりよっぽど記憶に残っている。
たとえば極楽では集団生活が行われているのだが、食事の際には1mもあろうかという長い箸を使うことになる。主人公はどうやっても食べ物が自分の口に運べない長い箸をどう使うのかと頭を悩ませるが、その箸は自分で食べるためでなくテーブルの向こう側にいる他の人に食べさせるための箸だった。
仏教の教えであるところの「助け合いの精神」を持つように教えていたのだと記憶している。
それを読んだ当時の自分がどう思ったのか詳細は記憶にないが、今この情景について改めて考えてみるとすると「気を遣ってしゃーないな」と思う自分がいる。
まず自分が食べたいとき、わざわざ対岸の人に頼まなくてはいけないのは申し訳ないし、「あ、そっちの芋じゃなくてその右の・・そう、それです、あ、落としちゃったよ、すみませんどうも!」とかやたら時間もかかりそうで、だからもうちょっと食べたいんだけどガマンしたりもあり得るかもで、そんなこんなで食事の時間がたいへん憂鬱になりそうである。
助け合いはたしかに大事だけれど、出来ることは自分でやっていきたいし、食べたいものは自分でとって食べてそれぞれ「美味しいね」って気持ちをシェア出来たらそれでいいのではないかと思うのだ。
まあその絵本がそういうことが言いたいんではないことは承知のうえで、でも極楽に行けるとしたら、せめて「他人に気を遣う」からは解放されたいなと思う今日この頃である。
あ、でも今書きながら思い出したけれど、その極楽での食事は片方が食べさせたら次はもう片方が、というかわりばんこシステムだった気がする。つまり互いにギブアンドテイクになっているわけだ。だから気を遣わなくていいようになっているのか。
そうしてゆっくり時間をかけて互いに食べさせ合いながら食事をする。
なんと心と時間に余裕のある生活だろう。
極楽とまではいかないけれど、今後はちょっとゆっくり余裕をもった食事もしてみようかな、と思った。
おわり
ひとことお題エッセイ30作になったらzine(紙の本)にしようと思っています。応援してくれると嬉しいです♪
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