台風15号が来た日にフライトの予定があったときの話
今年の8月ごろ、夏休みを利用してどこかへ行こうと思って長崎県への2泊3日旅行を決めた。行き先を長崎県にしたことに特に理由はないが、強いて言うなら「猫」だった。
聞いた話では、長崎県の猫の多くのしっぽはいわゆる「カギしっぽ」というやつで、そのへんにいるのはしっぽの曲がった猫ばかりらしい。しっぽの曲がった猫を見るために長崎県に行く。そんなのも面白そうだ。
ということで。9月9日発の飛行機を予約した。LCC(格安航空券)で、往復16000円。片道8000円と考えるとかなり安い。レビューを読むと「椅子がパイプ椅子のほうがマシ」「飛べばいいと思っているのか」などと書いてあるが、それはもう割り切ろう。なにごとも安上がりに越したことはない。
2019年9月9日
台風15号が襲来した。
台風15号「ファクサイ」は、マーシャル諸島近海で姿を表し、9月8日の夜から9日の朝にかけて関東を舐めるように移動した。振るった猛威は観測史上最大規模といわれ、千葉県を中心に甚大な被害を及ぼしつつあった。
そして、私の長崎フライト予定時間は午前10時10分。空港は千葉県の成田空港だった。成田空港までは電車で1時間30分ほど。フライトの2時間前までには到着していたい。交通に混乱が生じているらしいから、さらに余裕を持って6時には家を出たほうがいいだろう……と、そのときの私は判断した。
外に出てすぐ、ぶっ飛んで倒れた植木鉢が目に入った。雨はおさまっているものの、吹きすさぶぬるい風が夜中に通った台風の勢いを間接的に伝えてきていた。これ大丈夫かな……と不安がよぎるが、今思うと私はかなり楽観的だった。事態はもっと深刻だったのだ。
ぐちゃぐちゃの傘を尻目に移動する。地下鉄の交通に混乱はなく、スムーズに進むことができた。これで日暮里に行き、京成成田スカイアクセスで成田空港へ直行すれば余裕で間に合う。なんだ、いけるじゃないか。
しかし――
「成田線は全線、台風による影響のため運転再開見込みが立っておりません!」
「総武線、京葉線、武蔵野線、外房線……全て運転再開の見込みはありません。明日の運転状況もわからない状態です!」
アナウンスが鳴り響く駅で、背広姿の人々が列をなしてすし詰めになっていた。どうやら電車が動かないらしい。ほかの路線を使おうにも、東京と千葉をつなぐ全ての電車がストップしている。物理的に不可能だ。
これはもう、キャンセルするしかないのか……? 飛行機をキャンセルし、ホテルの予約もキャンセルするしかないのか。
いや……まだ方法はある。
「成田空港まで」
気がついたら私はタクシーに乗り込んでいた。
現在、午前8時。フライトは10時10分。高速道路を使えば1時間。着いたとしてもギリギリだ。さらに運賃も大変なことになるが、全て諦めて帰宅するよりはなにかが美しいような気がしたのだ。
私が10時10分のフライトを予定していることを告げると、運転手は少し考えてからハンドルを握った。
「やれるだけ、やってみます」
私はいままで出会った中で、もっとも頼もしい背中だった。
まだ都内も出れてなかった。
破損したガードレールや折れた木を運ぶ中高年などを横目に見ながら、私が乗るタクシーは遅々として進んでいなかった。
この日の陸路は、東京と成田空港を結ぶ全てが壊滅的な大渋滞という奇跡的な日だったのだ。渋滞ヒートマップを見たら、血行のいい子どもと同じくらい真っ赤になっていた。
時間は、午前11時。予約済みの飛行機は空席を作ったまま50分も前に成田を発っている。せめて飛行機が運休になっていれば返金されたはずだが、すでに台風は去ったあとだからフライトそのものは滞りなく進んでいるのが恨めしい。
痛む腰をさすりながら私は死んだ目でシートにもたれていた。そうか……こうなるのか……。「やれるだけやってみます」が本当にやれるだけやってみてダメだったパターン、漫画じゃ見たことないからちょっと勘違いしちゃったよ。
引き返そうにも、上下ともども交通状況は壊死しているから意味がない。タクシーを降りたところで、自家用ヘリコプターにでも乗らない限りどうしようもない。
料金メーターの数値はすでに15000円を越えている。これならANAのちゃんとした飛行機乗れたな。でも今は、とにかく成田空港に着けさえすればそれでいい。腰がいたい。
この牛歩ペースなら、あと1時間はかかりそうだ。
午後1時。まだ着いてなかった。
ツイッターのタイムラインを見ると「成田空港」がトレンドワードに入っていた。成田空港に出入りする交通手段が壊滅しているのに成田着の飛行機がドンドン降り立つから、立ち往生した乗客たちですし詰め状態になっているのだという。「地獄」「陸の孤島」などという言葉が踊る。
その地獄に、陸の孤島に。
今から行くのか……。
飛行機も無いのに。
とりあえず、もう帰れなくなったときのことを考えて成田周辺のホテルを調べてみた。とっくに全室埋まっていた。
さらにあと1時間の乗車は覚悟せねばならないだろう。私は腹をくくった。
「お客さん。到着しましたよ」
午後3時30分。タクシーは、成田空港に到着した。
私は一瞬、耳を疑った。まさかタクシーが目的地に着くなんて夢にも思っていなかったからだ。タクシーって目的地に着くことあるんだ。
ともかく、やっと大きな一区切りがついた気がする。このときの安堵感といったら、ほかの感情との比較ができないほどだった。
だからもう、タクシー代が34210円になっていたときも逆に自分でウケていた。実におもしろい数字だな―と思った。
おもしろいから運転手に許可を撮って記念に撮影したんだけど、一緒になって運転手も写真を撮ってたのには少しイラっとした。それは違うだろ。私とあんただと撮影の意味合いが変わってくるだろ。
しかし思えば7時間も密室を共にした運転手だ。目的地にたどり着けた喜びを共有する相手としてはふさわしいかもしれない。降り際、私は苦笑いしながら運転手に自虐した。
「でも、来たら来たでどうしようもないですね。飛行機の当てもないし。成田空港、陸の孤島になってるみたいですよ、ハハ……」
「………」
ガチャ、ブーーン……。
無視して、タクシーは走り去っていった。
平均時速9キロ。ランニングと同じくらいのペースで67kmを走り終えた最後はあっけなかった。
心に傷を負いながら広大な成田を歩く。内部の様子はネットの噂通り混乱に満ちていた。大きなキャリーケースを引きずって右往左往する人々がそこらじゅうにいる。この場の全員が一刻も早く抜け出したいと思っている場所に34000円払って7時間かけて登場した私ってどんなヒーローだ?
ともかく。ここにいても何も始まらず、いろんなことが終わるのみである。なにしろ5時間遅刻しているので長崎行きのチケットがないのだ。どうしよう。調べたところ、長崎行きのフライトはもう残っていない。詰んだ。
勤めている会社のチャットルームで相談してみたら、職場から多種多様な反応が返ってきた。
「かわいそすぎ…」
「これ、前乗りして飛行場のホテルに泊まる以外の方法は完全に詰んでたってことだよね」
「かわいそすぎ…」
「タクシー運転手、人生で一番儲かったかもしれない」
「タクシー代でネオジオが買える」
社員はみな同情を示してくれたが、明らかにその裏側にエンターテインメントを感じているのが透けて見えていた。
そんな中、一人の社員からこんな提案があった。
「長崎の近くの、佐賀とか福岡へのフライトはまだ残ってない!?」
その手があった!
そして同僚が、一席だけ残っている福岡行き格安航空券のURLを送ってきてくれた。出発は1時間後。光の速さでオンライン予約を済ませた。13000円の出費だが、もういろいろぶっ壊れているので気にならなかった。
これで19時には福岡に到着できる。あとは高速バスを使えば長崎県にたどり着けるはずだ。
全身の力が抜けた。やっと、長崎につながる細い糸をたぐりよせることができた。このときの社内チャットの盛り上がりはすさまじく、さながら電車男のようだった。「なんか桃鉄みたいだね」と楽しそうに言われた。うんちカードを投げつけてやろうかな。
その後も空港内で道に迷ってしまい「マップどおりに行っても通路が無いんですが……」「それは羽田空港のマップです」などというやりとりを受付でしたりしたのだが、おおむね予定通りに事は進んだ。
午後8時40分。福岡に到着。
いろいろ遅延が重なって1時間40分も遅れてしまったが、着けたんだからいいじゃないか。超速で博多ラーメンをかきこんだあとに高速バス乗り場へ。
バスで約2時間揺られ、佐賀を横断して長崎県へ向かう
午前0時22分。長崎県のわけのわかんない闇みたいなところで降ろされる。
宿泊ホテルまでちょうどいい距離の場所がなく、ホテルへ徒歩40分かかる停車場がいちばん近かったのだ。
午前1時15分。ホテル到着。
本来だったら午後1時にチェックインする予定だった場所に、ちょうど12時間の遅刻でたどり着くことができた。どうだ。これが人間の諦めない力だ。台風の野郎。思い知ったか。霧消しろアホ。
というわけで、どうにかこうにか意地だけを駆使してオンタイムで長崎県へ到着することはできた。無茶をしたようにも思えるが、しかしこれ以外にどうしようもなかった気もする。これ詰んでませんか? とにかく災害は甘く見ないほうがいいという教訓を得ました。
ちなみにバス停留所から長崎ホテルまでの道のりで野良猫を見つけたのだけど、しっぽ、普通にまっすぐだった。
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