「書くことなんてもはやない」をまずは知れ!という無名作家の言い分。
意味もストーリーも不明な小説をなぜ書くのか?
自分が書いたこの文章を、僕は良いか悪いかわかりません。しいて言えば、「前半の10行目くらいまでは良しとして、その後は……まあでも、ギリギリ悪くないかもしれない……」と思いながら書いています。
ともあれ、はっきりと自信のないこんな中途半端な文章をなぜ書き続けているか?というと、僕や僕以外の作家が書くいろいろな文章を、書いたり読んだりすることに、飽きてしまったからです。
当然ですが、飽きたことを続けても楽しくありません。飽きてしまったものからは、新しい「何か?」を発見できないし、自己の成長を期待することもできません。一方で、熟知しているからこそ飽きるともいえるので、受け手からすれば、作り手が熟知しているもののほうが、完成度も高くなる分、受け入れやすくなります。
たとえば、どんどん出てくる新しい強敵を、苦しみながら主人公の悟空が倒すドラゴンボールは、多くの人が受け入れやすく、安心して見ていられますが、一方で作者の鳥山明さんは、連載を続けるのが苦痛だったそうです。定番のストーリー展開に本人が飽きてしまって、本当はギャグ漫画路線に移行したかったからと言われています。要は、大きなお金が絡む関係上、そうはさせてもらえなかったということでしょう。
確かに、定番のストーリーの中でも、工夫のしようはあるだろうし、だからこそドラゴンボールは最後まで読める作品になっているともいえますが、しかし、「目の前にある自分がやりたいと思うことをまずはやり尽くす」ということを続けていかない限り、いつまでたっても不完全燃焼のまま、自己を極める道はますます遠くなります。
これは誰にみせても絶対ウケる、もしくはある限られた人たちからの評価は得られるだろうという自信や見込みのある道は、いわば「安心の道」です。「安心の道」というのは、すでに多くの人が通っている道です。多くの人によって踏みならされた楽な道を進んでも、成長は見込めません。自信のあるものをいくらつくっても、自己を極める道は拓けないということです。
だからこそ僕は、自分でもよくわからない自信の乏しい文章(小説)をあえて書いているのです。とはいえ、完全に自信も見込みもないというわけではありません。「もしかしたら悪くないかもしれない」というギリギリのところを狙って書いているつもりです。ギリギリのところに身をおいてこそ、より自分を刺激し、成長させることができるはずだからです。
要は、サイヤ人が、死ぬギリギリまで痛めつけられた後に、飛躍的に強さを増すのと一緒です。ベジータが、変身後のザーボンに苦戦した末に戦闘力をあげたそれを狙っているのです。レベルの低いキュイやドドリアと戦っても大して強くならなかったのは、それが「安心の道」だったからです。だからといって、勝てる見込みが完全にないフリーザと戦えば死んでしまいます。今の自分よりちょっと上のレベルでの戦いを繰り返すことで、僕はスーパーサイヤ人になりたいのです。
そして、今の自分にとってそのちょっと上のレベル(変身後のザーボン)が、ベケットです。いや、実際はちょっとどころではなく、かなり上だと思いますが、しかし、そういうふうに書く気持ちがわからなくもないという、いわば自分の成長線上の先にいる人だろうと、現時点で僕はベケットを勝手にそう位置づけています。ということで、ベケットとは何者なのか?をいちいち説明するより、彼の文章をまず紹介しようと思います。
「書くことなんてもはやない」をまずは知る。
これは、ベケットが書いた「モロイ」という小説の冒頭です。このとおり改行はありません。先に進むほどより改行は少なくなり、紙一面文字がビッシリ埋め尽くされています。ついでにいうと、記憶喪失男の話というわけでもありません。そんなことはどうでもいいくらい、意味のわからない文章がこの後もだらだら続いていきます。
まあ、僕の書く文章のほうがもっと意味はわからないと思いますが……(笑)だからといって、自分がベケットと同列とか、ましてそれ以上だというつもりはもちろんなく、ベケットがこんなふうに書きたかった気持ちが、僕にはなんとなくわかるということです。というのも一つには、わざわざ自分が書かなくても、古今東西すでにあらゆる名作があるのです……
そう、小説家がしいて書くことなんてもはやないのです。古今東西すでにあらゆる名作があるにもかかわらず、なお自分が書く意味は何なのか?その迷いというか、これ以上なにを書く必要もない世界で、それでもなにかを書こうとする自分に絶望しつくしたあとで、ボソボソなにかをいっている?みたいな……ベケットの言葉は残りカスのような言葉だと、誰かが言っていましたが、確かにそんな感じもします。
読者のためではなく、自分のために書く。
おそらくベケットは、誰かに読ませるためではなく、自分自身のために書いたのだろうと僕は想像します。だとしたら僕も、もはや僕自身のためにしか書けないことを、ベケットの文章を読むたびに思います。
とはいえ、自分のための究極は他者のためにもなることを、僕は信じています。というより、究極の自己を介してこそ、真に他者や世界と繋がれるだろうと思っています。
あるいは、「全宇宙の生物はすべて、わたしの一部であり、わたしの内にあり、わたしの所有である」という古の教え(バガヴァッド・ギーター)を僕は信じているし、人間は究極みんなその悟りへ向かっていくのが、もっとも自然な生き方だろうと思っています。
いわば芸術をつくることは、悟りのための手段に過ぎないだろうということです。だとしたら、作品の良し悪しは二の次だと考えるようになったのは、ここ二年くらい前からで、同時に今の「自由連想法による文章練習」を書きはじめました。これは僕にとって、悟るための修業でもあるのです。
自己を極めるにあたって、どの方法やどんな道が幸いするか?は、人それぞれでしょう。ベケットを入り口にしたこの道をこのまま突き進むべきか、それともいったん戻ってまた新しい可能性を秘めた道のようなものが見つかるまで待機するか、あるいはかつて書いていたような、とにかく読めば一応意味はわかる普通にちかい小説?をまた書くべきか……見落としがあれば、やり直しも必要だし、必要なのに知らなかったことがあれば知り、知っていたつもりがそうでなかったら知り直したり……
と、結局はでも、ただ足掻きさえしていれば良いと思っています。しかし、そうやって一生あがいても、自己を極めるに至れないことは十分あり得るわけで、いってしまえば、ベケットでさえ、悟りには至れなかったんじゃないか?と思います。いや、瞬間的には悟っても、それを継続するために、ずっと書き続ける必要があったのかもしれません。
ともあれ、ベケットにしろ、僕が書いている自由連想シリーズもそうですが、作品それ自体の完成度を求めるよりも、書くという行為を通じて自己実現を果たす目的が色濃いため、基本的にはどっちも評価の対象にはなりえないのです。
とはいえ、限りなく悟りにちかいところにいるとか、極めて純粋な心をもっている人からすれば、指摘せざるを得ない違和感を覚えることはあるでしょう。しかし、せっかく指摘してもらっても、その違和感に気づけなかったり、その違和感をある程度繰り返さないと、次の気づきにステップアップできないとか、またその違和感を利用している節もあったりするかもしれないことを思えば、それを修正するのはなかなか容易ではないのが現実です。
が、ご指摘・ご意見はもちろん大歓迎なので、下記のコメントより何なりとお寄せください。やがて僕がスーパーサイヤ人になるために、ぜひご協力頂ければと思います。
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