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ファンシーなアイスクリームを買いにきたオブセッシブなヘイトおじさんのこと

東京駅で新幹線を待っていると、列の後ろのおじさんに「ここは指定席かな」と話しかけられたので、「そうですね」と答えると、「そうだよねえ」と親しげに仰る。「大阪までですか?」「いいや、静岡なんだけれど、ちょっと別の号車を探してくるよ、ありがとう」と柔和な話しぶりで、ゆっくりと去っていかれた。カーキのジャンパーに茶色のキャリーケースの後ろ姿。一期一会のその背中がなんとも愛らしかった。

そんな風に一言二言で素敵なコミュニケーションが生まれることもあれば、面倒なこともある。金曜に門前仲町のアイスクリーム屋さんに入ったときのこと。

小さな店の自動ドアの脇で、僕はソファに座って、パートナーがアイスクリームを買うのを待っていた。31日は混雑するあのアイスクリーム屋さん。甘くて僕は苦手なのだけれど、クーラーケースの前に列ができていた。ちょうど夕食後くらいの時間だったから、子連れも多くて。

すると、ひとりの男性が入ってきた。四十半ば、気が強そうな表情で、体格の良いおじさん。ただの描写であって、いかなるバイアスをかけたいわけでもないのだけれど、まあ、そんなおじさんが店にやってきた。

このおじさん、自動ドアが閉まろうとすると、手をかざして、ドアを開ける。妙なことをするなと思い、目の前のおじさんを眺めていたのだけれど、どうも暖房の効いた店内が暑かったのでしょう。ひたすらにドアを開けつづける。随分と冷える夜のことで、待っている人も少なくない。怪訝な様子の人もいたものの、文句を言わせない様子でオブセッシブにドアのセンサーを起動しつづけるおじさん。

最初は睨んでみたのだけれど、どうも伝わらないようなので、「暑いなら、整理券をお取りになって、外で待ったらどうですか。寒い人もいるんですけど」と、もう少し言葉は悪かったかもしれないけれど、できるかぎり礼儀正しく、そんな感じのことを言った。

いろんな人がいるもので、このおじさん、腕を組むなり、「あなた、何人?」と問うてくる。なるほど、そう来たかと思って、可笑しくなってしまった。「日本人ですけど、日本語がそんなに下手に聴こえましたか?」と応えると、「日本人、そんなこと言わない。あなたみたいなことを言うのは中国人だけ」と言いながら、店の奥に行ってしまった。去り際に「中国人は日本語喋ったらダメよー」と大きな声で言うものだから、さすがに苦笑せざるを得ず。その次の瞬間、女性店員に話しかけるときには、慇懃に丁寧な言葉遣いに切り替えるあたり、なんだか歪なおじさんの内面を感じてしまった。

すると、パートナーがアイスクリームを手にご満悦の様子で戻ってきたもので、帰ろうかと思ったのだけれど、このままで良いのかと思い、ふと逡巡した。というのも、彼を店の前で待って、発言の意図を問いただすべきではないかと思ったからである。基本的に、売られたと認識したら買わねばならぬと思ってしまうところもある。店に迷惑をかけないように配慮はしつつも、普段なら議論をふっかけ直すところではある。

しかし、である。彼の反応は、きわめて感情的だった。彼にどういった論拠で発言したのか、あるいは彼が指す「中国人」とは中国国籍のことなのか、漢民族のことなのか、中華思想を批判したいのか、中国共産党を批判したいのか、あるいは、そもそもどのようにして中国人なるレーベルで人の性質を断じることができるのか、問いただしてみたとて、まともな答えは返ってこないことは明白だった。

無意味なのである。徒労なので、結局やめた。ただ、なんだか哀れというか、悲しいのである。いかに簡単な言葉で恐ろしいことを口にしているか。無自覚の恐ろしさ。彼はなにか中国で嫌な目に遭って、以来個人的な理由で、反中を掲げているのなら、そのパーソナルな体験談にはトラベルストーリーとしてぜひ耳を傾けてみたい。

ヘイトスピーチは、理屈じゃないから恐ろしい。理屈ではないのに、ひとつの言語として成立してしまう。中身はないのに、ある意味を伝達し、虚なる認識は安易に共有され、別の意味や認知を生み出し、発展させてしまう。言語は新しい認知を生み出すばかりではなく、果ては行動にまで影響するのだから。

なにを今更と言われるのだろうけれど、巷間、公共空間で似たような言葉を耳にすることは多い。憂うというほど大仰なものでもなく、単に悲しい。

(思えば、アメリカにいた頃、最もリベラルなノースウェストにいたにもかかわらず、何度も人種差別を受けたし、それはとても身近な出来事として受け止めていた。その頃のアメリカは、イラク戦争に突入して、急激に右傾化していたから、そんなムードが若い世代にも醸成されていたのかもしれないけれど。その話はまた別の機会に。)

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