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便利さのあるべき場所

以前実家に帰った時、いつの間にか一部リフォームされていて、特に風呂トイレなどの水回りがアップグレードされていました。

母親はここをこうしたああしたなど、自慢げに説明してくれます。快適そうになっていたので、それは良かったと思います。

ただ一点だけ、『ん?』と思った点は、トイレ。

綺麗になっていて良かったんですけど、いざ自分が使い終わって出ると、たまたま母親がいて、

「流さなくても、トイレは自動で流れるんだよ。」

と教えてくれました。

まあ、あえてつけた機能ではなく、標準装備なので仕方ないのですが、親子の間柄ということもあり、あえて僕は物申しました。そんなもん家には不要だと。

なぜなら、実家にはまだ小さい子も住んでいます。
その子たちが、トイレを流せない子になったらどうするのか。という話。

由々しき事態です。

これに似たような考え方の製品は他に、

・有害な成分は使ってないので、食べても大丈夫な粘土。
・土の還るので、捨てても問題ないエコバック

などなど

しかしこれらは、リスク回避や安全装置(保険)といった類のものであることを忘れてはならない。

・有害な成分は使ってないので、食べても大丈夫な粘土。
→食べても良い
・土の還るので、捨てても問題ないエコバック
→捨てても良い

ということではないですね。

例えば、エコバッグなんかはなぜあるかといえば、プラゴミ削減、環境保全のため。もっと言えば物を大切にするということが、本来の目的だということ。

これがもし「捨てても問題ない」

という誤った認識の状態でインプットされてしまうと、これは本末転倒な事になりかねない。

確かにその製品自体は、ちゃんと土に還元されるのでしょうから、捨てても問題ないと思いますが、受け取り方によっては、本来の目的に対する人間の意識は変えられないのではないか。という一抹の疑問が残ってしまう。


先のトイレの話も同じで、トイレはなぜ流すのかといえば、次に使う人のため、衛生的に綺麗に保つため。という要素が大いにある。たとえ次使うのが自分であっても。

個人にその意識が薄れていくのはやはり、如何なもんかと思ってしまう。


そういう意味で、公共のトイレにはその機能があるのは、悪くない。

たとえばデパートの場合、主体はあくまでデパート。しかしトイレの利用者は不特定多数の客である。使用者が一歩トイレを離れれば、たちまち匿名性を帯び、次に使用する人にとって責任の対象は、その匿名の人ではなくデパートになってしまうからだ。
さらにこのご時世、あそこのデパートのトイレは汚いなどと、書きこまれてしまったりという、デパート側にとってはなんともリスキーなことが起きてしまったりするわけで。ある種の保険として、自動洗浄機能は必要な便利さだと言えます。

言わずもがな、(特定の理由がある場合は除いて)個人宅用のトイレにその便利さは必要ない。たまにお客さんが来たときに流してなかったら恥ずかしいくらいで。
不必要な機能によってトイレを流せない子供が育って、社会に放たれるわけですからね。子供も、どこかの段階で気づくのでしょうが、悪循環となり得ますね。


こと便利になったということに対しては、人は歓迎しがちで、目も行きがちですが、やはりそこは、本来の目的を見失ってはいけない。

イノベーションの起こし場所を間違えると、予期せぬ形で返ってくるかもしれません。

便利すぎて、人間の機能、意識レベルを低下させてしまうというのは考えもんです。

以上、トイレ自動洗浄装置に思うこと。でした。


おしまい。

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