
なぜド田舎の江戸を改名もせずに幕府を開いたのか?家康の情念が東京を作った!?タブーなき“最新”皇居ガイド
沼地だったド田舎の江戸を家康が開拓した――とはよく知られたストーリーだが、その裏には、家康のある“覚悟”があった!?戦国末期と江戸末期、なぜ“江戸”という土地が選ばれたのか? 江戸の歴史を踏まえて考える、ちょっとナナメな皇居ガイド!
■玉音放送など数々の歴史の舞台に
皇居前広場
江戸期には西の丸下と呼ばれ、有力譜代大名や老中・若年寄などの大名の屋敷跡が立ち並んでいたが、明治以降、広大な広場となり、権力と民衆の斬り結びの場として、玉音放送、血のメーデー事件など、さまざまな歴史の舞台となっていく。現在は、砂利部分と芝生・黒松が植わった部分に分かれ、内堀通りが真ん中を貫いている。
■後醍醐天皇に味方した武将の巨大像
楠木正成像
1331年、鎌倉幕府倒幕計画を立てた後醍醐天皇と共に挙兵した楠木正成の像。皇居外苑の一角にあり、明治33年(1900年)に住友財閥が献上したもの。上野の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と共に、「東京の三大銅像」のひとつとされる。顔を皇居から背けるのは失礼に当たるということから、顔が記文で示された正面とは反対方向の皇居側を向いている。
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