国家に狙われたストリート・ギャング――ニプシー・ハッスルの死去から見る米ヒップホップの司法戦争

――ストリートから誕生したヒップホップは、時代と共に成長し、エンタメに特化したパーティチューンから、真っ向から社会を批判するプロテストソングまで、形態は多種多様だ。本稿では、アメリカのひとりのラッパーの死去を軸に、ヒップホップとラップ、ひいては黒人が自国と向き合ってきた闘争史を振り返っていきたい。

ニプシー・ハッスルが銃弾に倒れたショップ「マラソン・クロージング」前には、地元民やファンからたくさんのキャンドルが供えられた。(写真/塚田桂子)

 アメリカのラップ/ヒップホップ、あるいはストリート界隈の「戦争」という話になると、どうしてもストリート・ギャング間の抗争を思い浮かべてしまうかもしれない。ストリート・ギャング界隈からデビューしたラッパーも決して少なくないし、有名になってから、彼らとお近づきになった2パックのような事例もある。しかも、その2パックの命を奪った1996年の銃撃事件の背景について語ろうとするなら、ストリート・ギャングの存在を抜きにすることはできない。

 2019年3月末日、ニプシー・ハッスルというラッパーが、カリフォルニア州サウス・ロサンゼルスに位置し、自ら経営する「マラソン・クロージング」の店舗駐車場で撃ち殺された、という悲報が駆け巡った。そのわずか2カ月ほど前、候補者としてグラミー授賞式に出席していたとはいえ、ニプシーは――例えば、生前の2パックに比べたら――知名度もセールスも格段に低い。コアなラップリスナーの間でさえ、「ストリート・ギャングあがり」、あるいは「彼らと太い絆で結ばれているラッパー」という認識が大半を占めていたようだった。

 ロスには1960年代から「クリップス」と「ブラッズ」というストリートギャングの2大派閥が存在している。ニプシーがつるんでいたのは、クリップス側の〈ローリン60ズ〉というセット(組)だった。76年から活動を始めた彼らは、90年代末から00年代初頭にかけて、ロスでもっとも多くの構成員を擁するまでに成長した。85年生まれのニプシーは、14歳で家を出てローリン60ズに入ったというから、構成員数のピーク時だ。そして、ラッパーとしては05年末から本格的に始動し、その3年後にはメジャーレーベルと契約することになる。

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