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西部戦線異状なし

 今回は前回に引き続いての映画の感想だ。前回は不覚にも自分らしくない文章を書いてしまった。今日はいつも通りにかければいい。

「西部戦線異状なし」

 僕は戦争の映画が好きだ。当然コメディやヒューマンドラマを見ているときとは気持ちは違う。現実離れした戦場は確かに過去にあったものだ。そのためか映像化された悲惨な戦いは、どのアクションやSFよりも刺激的である。主人公は生き残るが自分はどうだろうかと重ね合わせては、たいてい生き残って帰還する想像をする。また、深く考えすぎて、流れ弾に当たって負傷してそのまま生還か、はたまた、相手の砲撃に見事に被弾して即死か、映画の傍らの人に自分をあてたりする。

 戦争映画は戦争だめゼッタイを超越する。そんなものはどうでもよくて、ああ、これが戦争がと絶句する。僕の場合は食も滞りなくすすむ。映画を見たあとその気持ちは生きることを止めはしないか、人の死はやはり、時々僕らの不安を掻き立てる。理不尽な死は、理不尽さに死を連想させる恐怖を与え、死には人間の無力さのイメージを加えさせる。

 現代社会では自由はそう簡単には奪えない。だから、立場や集団を利用した心理的な力で奪うのだ。それが理不尽であり、強いられた挙げ句、死に値するような経験をすれば、理不尽には死相応の恐怖が植え付けられる。時間が経てば忘れ去られ、次の世代は強いられることに違和感を覚えない。たとえ気がついても、不快に満たない柔らかい感情である。
 この映画を見たあと、少し社会の不穏な動向が分かるようになった気がする。信じられるものが減ったゆえ、本を読むようになった。映画を観るようになった。絵を発信するようになった。

 理不尽の違和をもっと痛感するべきである。証拠はいくらでも恣意的に利用できる。要は知識を蓄え、多視点の取得と理不尽には違和を感じること。そして、自己顕示である。どれかが優れていても、バランスが良くなければ成長しない。

 知識を蓄える本と感情を繊細にする映画と自己顕示の絵や文章である。

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