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正しさと暴力と新成人

「ハイパーハードグルメリポート」(上出遼平著)読了。

お腹が減って、旅に出たくなって、いろいろ考えさせられる良い本。ああ、これは読み返す本だな、と思った。

特にささったのは2つ。まだまだ消化中だから、思考があちこちいってしまって、言葉がたどたどしい。でも書き留めておこうかと。


一つ目。ロシア、シベリアに位置するヴィッサリオン教の村での言葉。

​「あなたの正しさを私は判断すべきでないし、私の正しさをあなたが判断すべきでもない。」

私がなんとなく思っていたことを突き付けられた気がした。こう、なんとなくもやもや~と脳みその片隅に浮いてたのが、バサッと人に言われて「ですよね。」という感覚。

私が知っている正義、倫理観は私が私をとりまく環境から収集し、自分なりの解釈を加えた寄せ集めである。いやまあ生まれながらにしてヒト科であれば備わってますみたいなやつもあるけど、そこは大体共通なのだからわざわざ思考することじゃない。後天的な部分だ、他人と異なりがちで、対立しやすいのは。

たかだか20年しか生きてない身で、しかも過ごしてきた環境はかなり偏っている。まずそもそも日本とアメリカしか住んだことないし、旅行で行ったことあるのも限られてるし、知り合いの多くは日本人であり、アジア系であり、高等教育を受けている or 受けた人であり、衣食住整っている人であり、etc.

つまり世界の大半は知り合いじゃない。彼らの言語も文化も朝ごはん何食べるかも、音楽何聞くのかも、何を仕事にしているのかも知らない。

そんなクソ狭いコミュニティで生きてきた私の善と悪の判断。そりゃ人の正しさを判断すべきでないのもうなずける。こんな薄っぺらいもの。


でもそれでも正義と悪を判断してしまう。この人の主張は賛同するけど、あの人は意味が分からない。なぜそんな主張をしているのか見当もつかない。理解しがたい。

人を私のクソみたいな正義で判断していけないのは頭では分かっている。だがどうしてもしてしまう。それを言語化したいのにできなくてまたもやもや。


このもやもやを多少払拭してくれたのが、ささったポイント二つ目の作者あとがき。

取材は暴力である。
その前提を忘れてはいけない。
カメラは銃であり、ペンはナイフである。
幼稚に振り回せば簡単に人を傷つける。


そうか。暴力なのか。


私はジャーナリストではないので「取材」をすることはない。

けどカメラやペンという使われる道具は持つし、取材という行為に類似していることもする。

他人を観察する。意見を言う。判断する。「ただ聞いてるだけ」という超受身な行動に見えることでも、「誰の何を聞くのか」という時点でどうしたって自分の価値観やら何やらが反映される。耳から入ってきた音声が私の脳内で認識されるまでの過程でも「私の解釈」というのが加わる。

私が書いた文章、撮影した写真、発した言葉。すべてが例え正義に則っていても、正しさなんていちいち考えないような事柄であっても、暴力である。


これをもう少し拡張すれば、私の存在が暴力だと言える。

自発的にアウトプットしなくたって生存してるだけで私は私の価値観と特権とをばらまいているし、表明している。

家に食べ物があるし、なければ駅前のスーパーで買える。
オンラインで大学の講義を受けられる。
日が落ちた後でも外出できる。(少なくとも日本では)
こんな文章を書く余裕、こんなことを考える余裕がある。

私の存在が、暴力である。

人によってはあまりいい気分のしない自己認識だろうが、私はこの文章を読んでこれを自覚した時に救われた。(いや、救われたは少々大げさすぎる。ずっとつっかえてたうんこが出たくらい。)

勿論「よっしゃ!」なんてことは思わない。けどダメと分かっているけど自分の善悪を他人に押し付けてしまうその行為を暴力だと明言されてスッキリした。


そして何よりその後。

「これは単なる前提に過ぎない。」

この著者は取材の暴力を自覚したうえで、あえてその力を行使し続けている。彼らが話したい言葉を、聞きたい私達に届けるために。


私の存在が、暴力である。

これは単なる前提だ。

ならその先に、何かがある。

自身の暴力を自覚してそれでもやりたい、やらなきゃいけない「何か」が。

取材という暴力を行使してこの著者が届けてくれた言葉によって、私の中でもやもやと溜まっていたものが晴れた。

私にだってできるんじゃないだろうか。暴力という力を行使する方向を定め、コントロールすることが。というか、できなきゃいけない。じゃないとせっかく私が持っている力は単なる暴力のままで終わってしまう。


先週で20歳となり、成人式を迎え、一応形式的には大人になった。

20年もたって遅いと言われるかもしれないし、私もそう思うが、とりあえず自分の存在の暴力は認められるところまできた。

この先目標は2つ。

一つ目は、暴力の上に成り立つ「何か」を見つけ、やること。

二つ目は、自分の力のコントロール方法を身につける、つまり自分の言葉や行動の扱い方を覚えること。価値観やら生まれ育った環境やらが違うし、万人と賛成は絶対無理。どうしたって反対意見がある。けど、異なる人を私の正義で判断しないし、させない。そのスキルを得る。

で、これらの超長期的目標達成のために、とりあえずやることは一つ。

とにかく動きまくる。

いろんなコミュニティに足をつっこみ、いろんな人と知り合って、話す。それぞれどうやって自分の暴力性を扱っているのか知る、真似る。やりたいと考えてるプロジェクトを実行に移す。

以上。


本の感想一切書いてないから書くと、とにかくお腹が減る本。

料理の描写美味しそうだし、スリリングな状況てんこ盛りだし、考えることたくさんあるし。おすすめ。



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