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苦しみの話を、苦しみながら聞いてくれる人  ク・スジョン 【前編】/『あなたが輝いていた時』

圧倒的に輝く不滅の光ではなく、短く、小さく、何度も点灯する光の一つひとつが人々に希望をもたらし社会を変えていく――。そう信じてやまない財団法人「ワグル」理事長のイ・ジンスンさんが書いた『あなたが輝いていた時』(文学トンネ)は、彼女が6年間にわたって122人にインタビューし、ハンギョレ新聞で連載した記事の中から、12人分を収録したものです。同人誌『中くらいの友だち』を主宰し、韓国の社会事情にも詳しいライター・翻訳家の伊東順子さんの翻訳でお届けします。

いっそのこと銃で撃って殺してしまえば、いっそのこと鋭い刃物で心臓を一突きして殺してしまえば、あれほど苦しまなくてもすんだだろうに……韓国軍の銃剣は鋭利ではなかったのです。だから4歳の私は9ヶ所を刺されても生き残った。でも、他の人たちは息が絶える最期の瞬間まで三日三晩、血を流しながら、 水の一滴も飲めずに、苦痛にのたうち回って死んでいったのです。

(ベトナムのフーイエン省で会った生存者クオンからの聞き取り)

ク・スジョンが伝えるベトナム人の証言は想像を絶するほど残酷だ。1999年5月、『ハンギョレ21』*¹を通して初めて、韓国軍によるベトナムの民間人虐殺のレポートした時、ク・スジョンはホーチミン大学の歴史学科に在籍する修士課程の学生だった。韓国軍の公式記録からまるごと抜け落ちた歴史、事件から30年以上も封印されてきた野蛮と狂気の実態が、30代の若き女性研究者によって初めて暴きだされた瞬間だった。ベトナム反戦運動の嵐が米国をはじめとした全世界で吹き荒れていた時も、ソンミ村虐殺事件*²などの民間人被害に対する謝罪や贖罪しょくざい運動が広範囲に広がった時も、反戦・平和運動の無風地帯だった韓国。そこにク・スジョンが投げかけた波紋はとてつもなく大きかった。

*¹ 1994年創刊の週刊誌。韓国のリベラルを代表するメディアとして、創刊当時は強い影響力をもっていた。

*² ベトナム戦争中の1968年にアメリカ軍が引き起こした住民虐殺事件。無差別射撃で村民504人が犠牲になった。その大半は女性と乳幼児を含む子どもだった。当初は敵のゲリラ部隊との戦いと報告されていたが、フリージャーナリストの報道で真相が明らかになった。

『ハンギョレ21』は、1999年5月以降、韓国軍によるベトナムの民間人虐殺について繰り返し
レポートしている。写真は、ベトナム戦争に参加した元韓国軍兵士のインタビューを扱った
2000年4月刊行の305号。

ベトナム戦争に従軍した退役軍人の一部はハンギョレ新聞社に乱入し、虚偽の事実を流布されたと猛然と抗議した。一方で若者や知識人らにとってク・スジョンの記事は、まさに雷に打たれたような衝撃だった。「ごめんなさい、ベトナム」運動が起こり、虐殺現場を直接訪れる人々も年々増えていった。ベトナム紀行は現地の人々に真摯な謝罪の気持ちを伝える旅だった。ベトナムの有力メディアであるトゥオイチェーはク・スジョンを「韓国人の良心」を象徴する人物として、その「美しく尊い行動」に感謝の手紙を送ってきた。ところが今もク・スジョンは、歴史の表舞台には立っていない。

彼女は依然として民間の活動家であり、韓国とベトナムの双方が公式的な言及を避けるベトナム戦争の真実を暴き続けている。ク・スジョンはどうして身の危険を冒してまで、皆がつらい思いをする戦争と殺戮さつりくの歴史を暴こうとするのか? 忘れられた過去の痛みと傷をほじくり返して彼女が見つけようとする真実はいったい誰のためのものなのか? ベトナム戦参戦50周年にあたる2014年初夏、私は景福宮キョンボックンの塀が見える静かなカフェの2階でク・スジョンに会った。当時、彼女はベトナムで暮らしていたが、韓国に一時帰国していた。

 戦争 終わらないベトナム戦争の幽霊(BBCニュースコリア)より

これまで多くの文章を書かれてきましたが、御本人についてはあまり知られていませんよね。個人的なインタビューはわざと避けてこられたのですか?――ベトナムでは時々受けたことがあるのですが、韓国では今回が初めてだと思います。実は今朝もすごく後悔したんです。目が覚めて、起きてシャワーをしながら、ふいに「なんだよ、これ(インタビュー)。なんで引き受けちゃったんだよ?」って、一人で悪態をついてシャワーをぶん投げて、ああ、どうしよう……って、そう思いながら来たんです(笑)

これまで書かれたものには、個人的なエピソードを織り交ぜたようなものはありませんよね。国際的な活動をする女性の中には、そういったエッセイを書いてベストセラーになっている方も少なくないのに。
――書くのはあまり好きではないみたいです。書く以外に私にできることがない時、仕方なく書いています。

意外です。
――はい。カラオケでマイクをもって歌うのも震えます(笑)。仕事だと思うから講演もするし、原稿も書きますが。

私たちがベトナムについて知っていることの半分は、ク・スジョン博士から出ている。周辺で、そんな話を聞いたことがあります。
――そうですかね。ビジネス学会などには別の専門家がいらっしゃるだろうし、私は自分が「活動家」だと思って生きてきたので……。ベトナムは長く暮らしても、理解するのが難しい国なんです。ベトナムの人たちとわかり合うのは簡単なことではないし。他の人には見えないことが私に見えているとしたら、それはおそらく共感能力のせいだと思います。ベトナムはク・スジョンという個人を一つの「通路」だと信じているようです。自分たちの物語を受けとめて、どんな形にしろ伝えてくれる伝達通路。時間の蓄積によって出来上がった信頼といえるかもしれません。

長い間お一人で、本当にたくさんの仕事をされました。心許なくなることはありませんでしたか?
――実は今も悩んでいます。(1999年に初めての記事を書いてから)これまでの17年間、途切れることなく何かを続けてきたつもりだったのですが、この間に何かが変わっただろうか? 被害者の話もたくさん聞いて、あれこれ事業もたくさんやったと思うのですが、いざ(虐殺の被害現場に)行って人々の暮らしぶりを見ると、何も変わっていないのです。そして一人、二人といなくなる。1999年に初めての取材で出会った人々のほとんどが、今はもう他界されました。虐殺を記憶する人は何人も残っていないのですが、私が初めて彼らに会った時から亡くなる時まで、彼らの苦しみは特に何かが変わったわけでもないんです。それを見ながら、ものすごく限界を感じました。それでも、この仕事をやめられないのは、こんなふうに言っていいのかわからないのですが……。

何ですか? やめられない理由は?
――私が動くことで人々が関心をもってくれるし、私が彼らの話を少しずつでも伝えることで、誰かが来て仕事を引き継いでくれるだろう。でも私が止まった瞬間に、誰も聞いてくれなくなるんじゃないか。私が止まってしまえば、ベトナム問題を考える人がもう出てこないかもしれない……そんなふうに思ったのです。

ク・スジョンは1966年生まれだ。彼女が生まれた年の陰暦の正月が、ベトナムで韓国軍による民間虐殺がもっとも多く起きた月だった。その奇妙な運命の現場に出会うまで、彼女は韓国で平凡な成長期をすごしていた。
母胎信仰*³の敬虔けいけんなキリスト教信者だったク・スジョンは1985年、韓国神学大学(韓神ハンシン大学の前身)社会福祉学科に入学し、学生運動に参加した。卒業後は月刊『社会評論』の記者として働いていたのだが、雑誌が廃刊になったため、先輩に連れられて入ったのが金大中キムデジュンの選挙キャンプだった。1992年のことである。DJ*⁴の名前で出される文章や、テレビ番組用のスピーチ原稿を書くチームで仕事をした。結果は落選だった。「DJが最高だと思ったことは一度もなかった」が、実際に選挙に負けてしまったことで「彼すらも受け入れない社会」で暮らすのが嫌になった。だから韓国を離れたかった。ベトナムに留学すると言ったら、母親は「そこはまだ戦争中じゃないか」と言い、断食してまで阻止しようとした。しかしク・スジョンは意地を貫き通した。

 *³ 文字通り母親のお腹にいる時から信仰を持っているという意味。韓国には幼児洗礼を受けたクリスチャンも多い。

*⁴ 名前のイニシャルからとった金大中の通称。金泳三キムヨンサムはYSと呼ばれていた。両者はともに独裁政権時代には反体制政治家のシンボル的な存在だったが、1992年の大統領選挙で金泳三は与党候補として出馬した。金大中がそれに対抗したが落選。民主陣営の落胆は激しかった。

90年代初頭はロシアや中国に留学するのがブームでしたよね。どうしてベトナムを選んだのですか?
――どうしてベトナムにこだわったのか、私もわかりません。韓国を出なきゃと思った瞬間に、脳裏に浮かんだのがベトナムだけだったんです。ベトナム語もできないし、なんのコネもありませんでした。ただ大学に通っていた頃にベトナムについて少し勉強したことがあって、一番好きだった本が『白い服―サイゴンの女子学生の物語』と『あの人の生きたように―グエン・バン・チョイの妻の記録』でした。特に『あの人の生きたように』は抗米戦士グエン・バン・チョイの一代記を描いた作品なんですが、その表紙の写真を今もはっきり覚えています。銃殺される時にも、「目隠しをはずせ。自分の祖国の清らかな空を見たい」と言って最後のスローガンを叫んで死んだという話が、とても強烈なイメージとして残っています。

ク・スジョンが初めてベトナムの土を踏んだのは1993年、満26歳のときだった。社会主義のベトナムで、政治的閉鎖性が強い歴史学科に外国人として入学したのは、ク・スジョンが初めてだった。ク・スジョンは大学院修士課程の入学試験で首席だったにもかかわらず、ベトナム政府当局からの入学許可が下りずに、8回にもわたりハノイの教育部を訪れて長官と面談しなければならなかった。当時、外国人留学生に対するベトナムの教育方針は明確ではなく、また関連学科の卒業でなければ大学院入学を認めないという規則もあった。幸いなことに2年8ヶ月後に、ク・スジョンは正式に入学を許可され、1996年にはベトナムの現代史と党史、通史の試験で30人中首席となった。

ベトナム語もできなかったのに、3年目にして学科首席ですか?
――その当時、歴史学科はベトナムで一番人気のない学科だったんです。学生たちはみんな歳をとった人ばかり。ホーチミン大学の総長をはじめ、要職に就いている教授はみんな歴史学科出身なんですけど……。

つまり人気学科だという話ではないんですか?
――それが違うんです。歴史学科という学科の性格がそうだということです。教職をしていて役職につこうとしたら歴史学の学位が必要であり、歴史学科の教授になろうとしたら、基本的には党員でなくてはいけない。

なるほど、一種の国家観を獲得するためのキャリア形成過程みたいな…。
――そうです。だから本当の意味で歴史に興味のある学生はそれほど多くありませんでした。

なのに、どうしてそんなに一生懸命勉強したんですか?
――そうなんですよね(笑)。たぶん私はベトナム留学生の第一世代だと思うんですが、1990年代の中盤から韓国の大企業のベトナム進出が始まり、ベトナム語ができる留学生はあちこちからスカウトの声がかかりました。私と一緒に大学院に通っていた留学生たちも、みんな大企業に移っていきました。でも私の場合は、そもそも勉強をしようと行ったわけですから(笑)。一度始めたらとことんやるタイプで、途中でやめるということは、あまりないんです。

後編に続く

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著者:イ・ジンスン
1982年ソウル大学社会学科入学。1985年に初の総女学生会長に選ばれる。20代は学生運動と労働運動の日々を過ごし、30代になってから放送作家として<MBCドラマスペシャル><やっと語ることができる>等の番組を担当した。40歳で米国のラトガーズ大学に留学。「インターネットをベースにした市民運動研究」で博士号を取得後、オールド・ドミニオン大学助教授。市民ジャーナリズムについて講義をする。2013年に帰国して希望製作所副所長。2015年8月からは市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を開始し、財団法人ワグルを創立。2013年から6年間、ハンギョレ新聞土曜版にコラムを連載し、122人にインタビューした。どうすれは人々の水平的なネットワークで垂直な権力を制御できるか、どうすれば平凡な人々の温もりで凍りついた世の中を生き返らせることができるのか、その答えを探している。

訳者:伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスJPアートプラン運営中。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』(皓星社)を創刊。近著には『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)、訳書に『搾取都市、ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)等がある。

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