私はもっと勇敢であるべきだった ノ・テガン【前編】/『あなたが輝いていた時』
「被告である朴槿恵を懲役24年、罰金180億ウォン〔約18億円〕に処する」
2018年4月6日、朴槿恵前大統領の公判で判決が下った。裁判所は、被告がノ・テガン前文化教育部体育局長に辞表を出すように指示したことについても、職権乱用罪と強要罪を認定した。ノ・テガンが「悪い人間」の烙印を押され、左遷されてから4年8ヶ月、まさに「事必帰正*¹」だった。メディアで彼の所感は報道されなかった。たとえメディア側の要請があったとしても、おそらく彼が一貫して言及を避けたのだろう。
大統領の指示で彼に辞職を強要したキム・サンユル前教育文化主席秘書官とキム・ジョンドク前文化体育部長官が、それぞれ懲役1年6ヶ月と懲役2年の実刑を宣告された時もそうだった。コメントを求める記者の質問攻勢に対して、彼は「私が申し上げることは特にありません」と答えていた。不当にも公職を追われた彼が、文在寅政権になってから文化体育部次官に華麗な復帰を遂げた時も同じだった。劇的な帰還所感を期待する記者たちの質問にも「感情的なしこりのようなものはありません」と一言コメントすると、平昌オリンピックを成功させることだけに専念すると語った。ノ・テガンは寡黙で慎重な人間だ。公職に復帰した後で新聞に寄稿したコラムに、わずかに正直な胸の内を明かしただけである。
私がノ・テガンに会ったのは、彼が公職を追われ、民間団体である「スポーツ安全財団」の事務総長として勤務していた時だった。2017年2月8日、ソウル市松坡区のオリンピック公園の近くにある彼のオフィスを訪ねた日、高層ビルの隙間を吹き抜ける風は頬が切れそうなほど冷たかった。立春は過ぎていたが、そう簡単に春が訪れそうにはなかった。朴槿恵大統領の弾劾訴追案が国会を通過したものの、まだ何一つ新しいことは始まっていなかった過渡期、夜明け前の深い闇のように希望と不安が入り混じった時期だった。
大統領は彼のことを「悪い人間」と言った。チョン・ユラ*³ の味方をせずに、事実関係に忠実な報告書を提出したことが禍となった。2013年8月、朴槿恵大統領は手帳を開いて彼の名前をしっかりと指さし、更迭するよう求めた。文化体育部の体育行政を担当していた彼は国立中央博物館に左遷されたが、そこで勤務して3年目、またしてもフランス製高級ブランドを販売するイベント開催に反対して睨まれることになった。「この人はまだいるのですか?」と大統領は尋ねた。公職生活32年2ヶ月、最終的に彼は辞職に追い込まれた。
私物化された権力が憲法の上に君臨する国で、公務員という存在はちっぽけで無力なものだ。権力の忠実な下僕となるのか、個人の良心に従うのか? 逆鱗に触れた場合の対価は過酷であり、順応の結果は惨めなものだ。権力の不正に逆らった者たちは追放され、息を殺して生き残った公務員たちは「魂を失った動物」、「権力の下僕」と国民から嘲弄される。不当な権力が作動する時、垂直的な執行体系に蹂躙されている人々に、私たちは何を求めることができるだろうか。上意下達の命令体系への絶対服従を強いられる公職者の世界で、最高権力者の標的になってまでノ・テガンが守ろうとしたものは、いったい何だったのだろう。
ノ・テガンが勤務する財団のオフィスは、出入り口にセキュリティシステムが設置されていた。あまりにも頻繁に記者たちが訪れるからだという。職員の確認を経なければ、彼の部屋に入ることはできない。暖房の温度が下げてあるためか、室内は冷え冷えとしていた。一度は脱いだダウンジャケットをはおってインタビューを開始した。
お正月はいかがでしたか?
――はい、両親が大邸にいるので帰省しました。
この間、ご両親の心労も大変だったでしょうね。
――父は84歳なんですが、この3年というもの、朝起きれば、インターネットで記事を検索するのが日課だったようです(笑)。私は三兄弟の長男なんですが、すぐ下の弟も公務員なので、もしかして何かあったらと気がかりだったようで。
ひょっとして、お父様も公務員出身ですか?
――違います。私の父はずっと労働者でした。18歳で第一紡績に入社して定年退職まで、ずっと工場で染色の仕事をしていました。
小さい頃から、お父さんにとっては自慢の息子だったでしょうね。
――いや、自慢なんてことはなくて……心配かけることもないほうでしたが。
一生分の心配をこの何年間で、まとめてかけてしまったわけですか?
――そうなりますね(笑)。それでも特にどうしろというわけでもなく、「自分のことは自分でなんとかするだろう」と私を信じてくれています。うちの両親は2人とも学歴こそ高くありませんが、子どもを信じて見守ってくれるタイプです。
|出世を考えて公務員になるな
ノ・テガンは大邱の人だ。漢学者だった祖父のノ・チャガプは新幹会*⁴ のメンバーであり、武装闘争にも加わった独立運動家だった。祖父が身上をはたいて国外で活動している間、祖母や父の兄弟たちは貧しい暮らしを強いられた。荒波にもまれながらも、真面目一筋だった父。その背中を見ながら成長したノ・テガンもまた、実直でしっかりものの優等生となった。大邱高等学校と慶北大学法学部行政学科を卒業し、早々と公務員の上級試験に合格すると、20代半ばにして公職生活が始まった。2016年5月に強制的に辞職願を提出させられるまで、丸32年と2ヶ月を公職者として勤め上げた。
青春を捧げた職場ですよね。後ろ髪を引かれる思いだったのでは。最後の日のことを覚えていますか?
――職員たちを動揺させてはいけないと思って、辞表を出した後も秘密にしたまま、退職日の前の1~2週間は休暇を取りました。みんなに会うのはつらいなと思い、日曜日の誰もいない時にオフィスに行って、こっそりと荷物を車に詰め込んで。「これで公務員生活も終わるんだ」と、何ともやるせない気持ちになりました。
職員の皆さんにはお別れの挨拶をされなかったんですか?
――しましたよ、後になってからですが。わざわざ坡州の自宅まで訪ねてきてくれた後輩たちもいましたし。私から送別会をしようとは言えませんでした。私のせいで彼らに迷惑がかかるかもしれないし。2回も大統領から名指しされた人間ですから、下手に私と親しくしたことで、後輩たちに何かあったらいけないと思って……。
ノ・テガンの子どもの頃の夢は判事だった。考えが変わったのは、法学部に進学した後、行政学の講義を聞いてからだった。当時、40代の若手が多かった行政学科の教授は、学生たちと野球やサッカーを一緒にやるほど自由でフランクな感じだったが、公務員の姿勢と価値について語る時は、とても真剣で情熱的だった。出世や安定を期待して公務員を目指すのなら、逆に人生は不安定になってしまうから、最初からやめておいたほうがいいと。公共の利益を重んじて、考え抜いた行動がとれる人が公務員になるべきだと彼は教わり、それを生涯の大原則として心に刻んで公職生活を全うしてきた。
初めから体育行政に関心をお持ちだったんですか?
――いいえ、最初は労働部に行こうと思ったんです。漠然とですが、労働者の権利を改善する仕事とか、やりがいがあるだろうなと。
もしかして、学生運動の闘志だったとか?(笑)
――いいえ。学生運動とかではなくて、うちの父が退職までずっと染色工として働いてきたので、そういう苦労した人々の力になりたいという単純な思いでした(笑)
しかし思ったようにはいかなかった。希望した部署ではなく、国家報勲処*⁵
に配属され、兵役を終えた後には体育部に移動となった。ちょうど1988年のソウル五輪が終わり、その後の処理業務が多い時だった。国際的な競技大会は開催するのと同じぐらい後始末が大切だと言う先輩の誘いを受けて、彼は体育部の一員となった。金泳三政権が発足して体育部と文化部が一つになった後は、文化体育部(以下、文体部)の体育分野でずっと仕事をしてきた。
体育局長から更迭される前に、「スポーツ2018」というプロジェクトを推進中だったとか。それは何でしょう?
――政権が代わると、部署別に5年間の計画を発表します。「スポーツ2018」は朴槿恵政権のスポーツ政策の方向性を決めたものですが、我々が考えていたのはもう少し文化的な脈絡です。スポーツには社会に変化をもたらすパワーがあると思っていました。スポーツは集団主義や国家主義に流されてしまう危険もありますが、公正な対決、ルールの遵守、チームワーク、共同体意識のようなポジティブな要素もたくさんあります。それをうまく生かして、社会のあらゆる分野に波及させようと思ったのです。プロジェクトのサブタイトルは「スポーツで大韓民国を変えよう」でした。
ええっ! なんとアイロニーですね。そんなスポーツの美徳を全て投げ捨てて、権力による不正の温床になってしまったとは……。
――そうなんですよ。体育は本来自分の能力以外に、他の要素が介入しにくい分野なんです。オリンピックで金メダルをいくつとったか、国別で何位か、そんなことで大韓民国の国力が上昇するかのような見方を変えたいと思っていました。スポーツ選手たちが「運動する機械」にされずに、普通に暮らしながら社会に貢献していけるような、健康的な財産になるように支援したいと思っていたのです。
とても残念です。文体部が初心に返って、そんな仕事ができれば本当によかったのに。
――私は文体部に思い入れがあります。自分の職場だからというだけでなく、文体部というところは大韓民国の官僚組織の中で、ちょっと特別なんです。本当に自由で、互いの壁もなく、上司と部下のコミュニケーションも活発で、長官に向かっても気楽に冗談を言えたし、違うと思ったら「それは違います」と率直に意見もできた。長官の中には服装も自由でいいという人たちもいて、真夏には半ズボンで出勤する職員もいました。文体部の一員として仕事をしたことは、楽しい記憶しかなかったのに……。そんな文体部が一瞬にして崩れてしまうのを見て、本当に残念でたまりませんでした。
|彼はどんなふうに「悪い人間」になったのか
ことの始まりは2013年5月、彼にかかってきた電話だった。モ・チョルミン青瓦台教育文化首席秘書官(当時)は電話で「パク・ウォノという人が乗馬協会に関して話があるそうだから、チン・ジェス体育政策課長に面会させるように」と言った。文化体育部体育局が大韓体育会を通さずに、競技団体の関係者と接するというのは異例なことだったが、青瓦台首席秘書官からの連絡だっただけに、無視することもできなかった。ところが、指示にしたがってパク・ウォノに会ったチン・ジェス課長は開口一番、「何か様子が変だ」と言ったのだ。
何が変だったのでしょう?
――パク・ウォノという人が乗馬協会関係者の名簿をもってきて、この人は問題があるとか、いろいろ情報提供をしてきたのですが、調べてみたところ、どうも我々を自分たちの派閥争いに引っ張り込もうとしているようだと言うのです。しかもパク・ウォノという人物について身元調査をしたところ、乗馬協会の仕事をしていながら、横領、詐欺未遂、背任、私文書偽造などの前科があると……。
私文書偽造までですか?
――法廷に提出する書類を偽造したそうです。ソウル市乗馬協会の副会長だかをしている時に。実刑判決で服役もしたというんです。そんな人の言葉を額面通りに受け取ることはできませんよね? 我々としてはパク・ウォノの話も、派閥争いの相手側の話も、どちらも問題だということで、スポーツ界全般についての改革法案が必要だという報告書を書いたんです。それをモ・チョルミン首席秘書官に送りました。
ところが、その報告書を提出したとたん、すぐにパク・ウォノから抗議電話があったんですよね?
――それは今考えてもびっくりするような、あり得ないことですよ。2013年7月5日にモ・チョルミン首席秘書官に報告書を送ったのですが、その1日か2日後にパク・ウォノがチン・ジェス課長に直接電話をしてきて「あんなふうに報告書を書いてどういうつもりなんだ、見てろよ」みたいなことを言ったそうなんです。チン・ジェス課長は「私を脅迫するのか?」と怒って電話を切ったのですが、しかし、それはもう本当にびっくりですよ。青瓦台への報告書は秘密厳守が要です。それがあるから、個人や団体についての問題点も指摘できる、そう思って提出した報告書が2日のうちに当事者の手に渡って、抗議電話を受けることになるとは。
その件がチョン・ユラに関連しているという話は、いつお聞きになったんですか?
――チン・ジェス課長が乗馬協会の人々と会う中で、この事件がチョン・ユンフェ氏*⁶ の娘と関係しているという話を聞いたそうです。青瓦台に報告書を提出する前に、この問題について我々も内部的に話し合いはしたのですが、当時、文体部のパク・ジョンギル次官は「原則通りにしろ」と言い、ユ・ジンリョン長官は「チョン・ユンフェ氏の娘だからって、メダルをあげなきゃいけないのか?」と言ったのです。チョン・ユンフェ氏が関係しているからというのなら、なおのこと大統領にそれを知らせて、虎の威を借りたような行動をさせないようにしてもらうべきだと思ったのです。我々としては、大統領は自分が公言した国政の原則は守るものだと信じていましたから。
信頼は虚しく崩れ去った。翌月の2013年8月、ユ・ジンリョン長官が大統領にスポーツ界の改革法案を報告する席で、大統領は手帳を開いて「ノ・テガン、チン・ジェスは悪い人間だと聞いた」と言って、人事措置を命じたのだ。
大統領が実務担当の局長・課長クラスを名指しして「悪い人間」と言うことは、普通にあることなんですか?
――(真剣に考えてから)30年の公務員生活の中で、初めてだと思います。私はその最初の事例になったわけです。ハハハ……。
その頃、ホン・ギョンシク青瓦台民政首席秘書官(当時)がノ・テガン、チン・ジェスの2人に対して職務監察をしましたよね。結果として2人は「スポーツ改革に対して意識が低く、また公務員としての品位にも問題がある」ということでした。それが更迭の根拠となったんですか?
――その監察結果はユ・ジンリョン長官にも事前通告がされていなかったそうです。大統領も監察の内容には言及することなく、「悪い人間だと聞いた」という話をしただけと聞きました。正確なことはわかりませんが、先に人事措置をしようと決定しておいて、その根拠を探すための事後策として職務監察をしたのではないかと思います。
結果が先で、根拠は後に?
――まるでテレビドラマですよね(笑)。私が体育局長から更迭されて国立中央博物館待機を命じられた日、監察報告書と一緒にこれを受け取りました。(書類を取り出して)「2013年度上級職清廉度評価結果」なんですが、ユ・ジンリョン長官が赴任後の最初の内部課題を腐敗清算とし、室局長級幹部について職員たちに匿名で評価させた結果です。
評価書にあるノ・テガンの総合点数は、10点満点中9.98点だった。「不当利益授受禁止」と「健全な公職風土づくり」、「職務遂行能力ならびに民主的リーダーシップ」の3つの項目は10点満点であり、全ての項目で平均点を大きく上回っていた。
文体部の職員たちの評価は青瓦台の監察内容と全く正反対ですよね。
――青瓦台による職務監察が実施されていたのと同じ時期に、文体部の内部評価も行われたのです。みごとに正反対の結果が出たわけで、それと同じタイミングで人事措置が下されたのですから、本当に複雑な気持ちでしたよ。私は先輩や同僚、後輩たちが私にしてくれた評価を、自分の公職生活に対する勲章だと思っています。大切にしたいですね。
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著者:イ・ジンスン
1982年ソウル大学社会学科入学。1985年に初の総女学生会長に選ばれる。20代は学生運動と労働運動の日々を過ごし、30代になってから放送作家として<MBCドラマスペシャル><やっと語ることができる>等の番組を担当した。40歳で米国のラトガーズ大学に留学。「インターネットをベースにした市民運動研究」で博士号を取得後、オールド・ドミニオン大学助教授。市民ジャーナリズムについて講義をする。2013年に帰国して希望製作所副所長。2015年8月からは市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を開始し、財団法人ワグルを創立。2013年から6年間、ハンギョレ新聞土曜版にコラムを連載し、122人にインタビューした。どうすれは人々の水平的なネットワークで垂直な権力を制御できるか、どうすれば平凡な人々の温もりで凍りついた世の中を生き返らせることができるのか、その答えを探している。
訳者:伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスJPアートプラン運営中。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』(皓星社)を創刊。近著には『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)、訳書に『搾取都市、ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)等がある。
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